(49)西鹿沢『いたずらキツネ』

いたずらキツネが出没していたという西鹿沢の通町付近

 キツネにまつわる伝説は各地にあるが、山崎町西鹿沢でも「いたずらキツネ」の話が語り継がれていた。
 同町教育委員会の大谷司郎社会教育課長からお借りした山崎郷土研究会発行の″山崎郷土会報″の綴りを読んでいたところ、昭和51年発行の会報No.48号に同研究会の会長だった故・堀口春夫さんが書かれた「民話小噺(こばなし)」と題する項目の中に
「いたずらキツネ」のことが掲載されていたので、この話を知った。
 江戸時代の話だったので当時の山崎藩のことについて大変詳しい同町鹿沢の横井時成さんを訪ね、お話を聞いたり資料をいただいたりした。このあと堀口さんが書かれた山崎郷土会報に掲載された記事を再録するような形になったが、これに、ちょっぴり想像もまじえて「いたずらキツネ」の話をつづってみた。

 いまから300余年前の江戸時代初、中期のころ、同町西鹿沢の南と北を結ぶ道路の一つ、通町(とおりちょう)付近で、地元の人たちをびっくりさせるような出来ごとが相次いでいた。いずれも夜中のこと。
「山崎藩の武士が御殿からご馳走の残りを重詰にして帰宅する途中、知らぬ間に馬糞(ばふん)入りの重詰に、すり替えられていた」とか。
「暗い道なのでローソクに火をつけた提灯の明かりをたよりに通行中、なにものかに火を消され、溝に落ちて大ケガをした」とか。
「大木のような巨大な、お化けがあらわれ腰をぬかした」など、など。町の人たちは、いずれも「いたずらキツネ」の仕業だと話し合っていた。
 そのころ、同町西鹿沢と段両地区の境界の直ぐ北側に山崎藩の治安を守るための「鶴木門」という大きく立派な門があった。
「惣門(そうもん)」ともいわれ、冬は暮れ六つ(午後6時)になると大扉を閉じ、よほどの急病人でもない限り通行が許されなかった。門の横には番所があって番士が交代で張り番をしていた。
 ある日。弥左衛門という番士が宿直をしていたところ、夜おそく門をたたく音がし「弥左衛門、弥左衛門さん、門を開けて下さい、急病人が出たのでお願いします」との声。弥左衛門さんは寝たばかりのときだったので、目をこすり、こすり番所を出て小門を開けてみた。しかし、誰もいない。「はてな…空耳だったのかな…」と思いながら番所にもどって仮眠の床にはいった。
 しばらく、うと・うと、していると、また「門を開けて下さい。急病人です」との声。弥左衛門さんは、やっと体がぬくもりかけたところだったので、いやいやながら外に出て小門を開けてみたが、やっぱり誰もいない。
「おかしいなあ…」と一人ごとを言いながら、また床の中にもぐり込んだ。すると、今度は一段と大きな声で「早く門を開けて…」と繰り返し叫び始めた。
 うるさくて仕様がないので再度、小門を開けてみたが、やっぱり誰もいない。「くそ…」「これは、よっぽど、いたずら好きの小僧の仕業に違いない。こっぴどく、こらしめてやろう」と番所にもどらず、門の小脇の軒下にかくれて待っていたところ、しばらくすると大きなキツネが太い尻尾を振りながら門の前にあらわれた。
 「おやー!!」と弥左衛門さんは驚いたが、息をひそめて様子を見ていると、キツネが門の扉の前で逆立ちになり、うしろ足を扉にかけ太い尻尾で ″トン・トン″と戸をたたきながら人声に似せて「弥左衛門さん、門を開けて下さい」と言いはじめた。腹を立てた弥左衛門さん「おのれキツネめ。人をだましやがって…」と六尺棒をにぎって表へ跳び出し「こなくそ…」とキツネの頭を一撃。不意をくらったキツネは六尺棒で脳天を打たれてはたまらない。神通力を失って失神した。弥左衛門さんは、キツネの足を縛りあげ翌日、門の前につり下げて見せものにした。そのあと「これからは絶対人をだますなよ…」と怒鳴りながら放してやったが、それ以降キツネのいたずらは、すっかりなくなったという。
    (2005年3月掲載:山崎文化協会事務局)

(63)波賀町水谷『イボかみさま』

石碑の『イボかみさま』

 お正月に発行される『サンホールやまさきニュース』の“郷土の伝説と民話”のシリーズには「新春にふさわしい明るく楽しい伝説を掲載したい」と思い、宍粟市内あちこちのお年寄りの方々に、「なにか、明るい伝説をお聞きになったことはありませんか?」と尋ねていたところ、ある古老の方が、「はっきりしたことは知りませんが、波賀町水谷にイボの治療を叶えてくださる『イボかみさま』が、おまつりしてあるそうです。なんだか、明るい言い伝えがありそうだと思うんですが…」との話をしてくださった。
 さっそく、いつもお世話になっている波賀町文化協会の大成みちよ会長に電話。「同町内の水谷に今も『イボかみさま』がおまつりしてあるんでしょうか?」と問い合わせた。しばらくすると大成会長から「水谷在住の地域のことに詳しい方に聞いたんですが『イボかみさま』は今もおまつりしてあります」との返事をいただいた。
 いまにも雨が降りそうな年の瀬に近い曇天の朝、同市山崎町の中心部を車で出発。国道29号線を北進して波賀町へ。大成会長宅を訪問して取材の同行を依頼。引き続き車で同町水谷地区へ向かった。同町上野地区の国道29号線の交差点から同町と同市一宮町北部を結ぶ国道429号線に人り、およそ3キロ東進して水谷地区へ着いた。同地区では、地元のことに大変詳しい山村堅太郎さんに、お出会いし『イボかみさま』がおまつりしてあるところへ案内していただいた。
 『イボかみさま』は、同地区にあるヤマメ・アマゴ水谷養魚場の直ぐ側の道路近くの山すそにおまつりしてあった。お祠(やしろ)ではなく、高さおよそ2メートル、幅1メートル余の大きな石碑だった。石碑の台石には、直径およそ40センチの窪みのある石が備え付けられ、透き通った水が溜まっていた。
 山村さんは「昔からの『イボかみさま』は、ここからちょっと離れた山すそにありました。大きさは、今の石碑の3倍くらい。岩のなかに窪みがあり、いつもきれいな雨水が溜まっており、この水をイボにつけると、すっかりイボが取れたそうです。そこで地元の人たちが話し合い、イボを取ってくださるのは神様の御陰だろうと、この大岩を『イボかみさま』と名づけておまつりしたとのことです。しかし20年ほど前、道路の改修工事が施工されたとき、やむを得ず移動せねばならぬことになり、現在地へ移っていただいておまつりしました」と話されていた。
 『イボかみさま』の伝説については、大成会長、山村さんと話し合いをしたうえ、想像をたくましくして次のようなことだったのではないかと考えてつづってみた。

 昔、むかしのこと。水谷地区に畑仕事、家事など、よく働く年頃の娘さんが住んでいた。気がやさしく真面目で美人とあって地域の人気ものの一人でした。娘さんは日ごろは極めて平穏な生活をしていたが、ただ一つ辛いことがあった。それは、足の指先にイボができ、急いで歩くとすごく痛むことだった。
 ある日の夜、娘さんの夢路に清楚な身なりをした神様が現れ、「娘さんよ、足の指先にイボができ、歩くと痛むので困っているそうだね。いまから私の言うことをよく聞いてイボの取れる治療をしなさい。奥水谷の道ばたに大きな岩がたっており、その岩の中央に窪みがあって、いつもきれいな雨水が溜まっている。その水を指先にできているイボにつけてみなさい。きっとイボがとれますよ。しかし、イボに水をつけたあとは決して振り返らず帰宅しなさい」との託宣があった。
 娘さんは、夜の明けるのを待って、神様がおっしゃった通りの大岩のあるところへ行き、岩の窪みに溜まっていた、きれいな水を足の指先のイボにつけ、振り返ることなく急いで帰宅した。そのあと同じことを数日繰り返し続けていたところ、すっかりイボが取れてなくなった。娘さんは大よろこび。このことを家族はもちろんのこと、近所の人たちにも話した。
 すると、この話を聞いたイボができて困っている近在の多くの人たちが大岩をたずね、窪みに溜まっている水をイボにつけての治療に励んだためか、「振り返るな…」の約束を守っておれば、だれのイボもすっかり取れていたとのこと。前記したように、こんな有り難い大岩だったので、水谷地区の人たちが相談を重ね、『イボかみさま』としておまつりしたという。

 旧波賀町教育委員会から平成3年3月に発行された『ふるさとの文化財』の本の中には『イボかみさま』のことを『イボ石』という題で「昔から水谷部落の人々は、誰かれともなしに“イボが出来るとイボ石のつぼの水をつけるとなおる”と言って、へこんだ石に溜まっていた水をいただきによくお参りしていたそうだ。石をおがんだ後、石が見えないようになるまでは、絶対に後を振り向かずに家まで帰らないといけない。もし後を振り向くとご利益は消えてしまうそうである」(原文のまま)と記載されている。
  (平成20年1月:年宍粟市山崎文化協会事務局)

(53)山田『田町逆川 眼が治る』

かつて“逆川”が流れていた山田地区南部付近

 このシリーズでは、いままでに宍粟市山崎町内の伝説・民話が23回掲載されたが「まだ、記載しておかねばならぬ伝説・民話があるはず…」と思案。同町内の古老の方々に「何か、いい話はありませんか…」と尋ねたり「山崎郷土会報」を読んだりしていたところ、昭和48年5月発行された同会報42号のなかに同町山田の故・福井詫二さんが書かれた『田町(たまち)逆川(さかがわ)眼が治る』と題する伝説が掲載されていたので、さっそく取材した。
 秋晴れの日。少・青年期の昭和23年まで伝説の地、同町山田地区に居住されていた同町内の総道老人クラブの前会長、柳田弘さん宅を訪問。逆川の伝説にまつわる話を聴かせていただいた。
 柳田さんは「私が山田地区に住んでいたころ、自宅の直ぐ前の道路を隔てた西側に逆川が流れていました。延長およそ60㍍、幅60㌢ほど。両側に石積みの縁(ふち)があり、きれいな水が南から北へ流れている珍らしい小川でした」。「この川の水で目を洗うと眼病が治るという伝説は、子供のころ両親や近所のお年寄りからよく聞きました。小学生だった昭和初年度には小川で目を洗っている人の姿をよく見かけました」など、話して下さった。このあと、ご無理を申しあげ、伝説の現地へ案内していただいた。
 逆川は同町山田地区の南部。道端に寛政九年(1797年)建立と刻み込まれた「因幡街道」の道標の立つ国道29号線と町道との交差点の西詰めから北へ流れていたそうだが、いまは同国道の側溝になり、昔の小川だった面影は全くなくなっていた。ただ一つ、側溝の水が南から北へ流れているのが、かつての小川の名残をとどめているように思えた。
 伝説の題名に同町山田地区のことが″田町″と記載されているのは、むかし同地区が旧山崎の中心街から、ちょっと離れたところにあり、住家が少なく、田んぼが大きく広がっていたので、町の人たちから″田町″と呼ばれていたことから。また″逆川″は、同町付近で一番大きい揖保川が北から南へ流れているのに伝説の小川は、揖保の流れとは反対の南から北へ逆さま流れだったので、″逆川″と言われていたらしい。
 柳田さんから聴かせていただいた話と、故・福井さんが会報に書いておられた伝説を参考に、いつもながら想像もまじえて『田町逆川眼が治る』の語り継ぎをつづってみた。

 むかし、昔のこと。播磨の国を巡礼中のお坊さんが、当時は野原だった山崎町山田地区に差し掛ったとき、患っていた目が急に痛くなった。あわてて道端にしゃがみ苦痛に耐えながら「神様・仏様お助け下さい…」と、心を込めてのお祈りを続けていた。その時、ふと横を見ると、きれいな水の流れる小川があるのに気が付いた。さっそく、両方の手のひらを合わせて清水を掬(すく)いあげ、繰り返し目を洗っていたところ、すう…と痛みがなくなった。お坊さんは痛みから開放されて大喜び。神様・仏様にお礼のお祈りをしながら小川をよく見ると、この近在には滅多にない南から北へ水の流れる逆川だった。
 お坊さんは、その後も元気で、あちこちへの巡礼を続行。目の痛みがなくなったことが嬉しくてたまらず、会う人、会う人に「逆川の水で目が治った」との喜び話を語り続けた。
 この話が、たちまち近在に広まり、それ以来、目の悪い人たちが山田地区の逆川にきて清水で目を洗う姿が、あとをたたなかつた。「とくに名月の夜、この川で目を洗うと効きめが一段とよい」との噂も広がり、仲秋名月の夜には逆川一帯は大勢の人たちで、ごった返し、順番を待って小川の縁にずらり並んで目を洗ったそうだ。その夜、目を洗った人は帰宅するとき決して後ろを振り向くな…という奇習もあって、みんな目を洗つたあとは、一途に家路を急いだという。なお、推測だそうだが、いまから1000年ほど前の平安時代に揖保川で大洪水が発生。同町山田地区へ、どっさり土砂が流れ込んだ。その時、同地区南部に厚く、北部に薄く堆積したため高い南から低い北へ水が流れる逆川になったとか…。
     (2005年11月掲載)

(48)安富町『皆河(みなご)の千年家の亀石』

皆河の千年家

 「新春にふさわしい明るい伝説はないかなあー」と、考えていたところ、安富町皆河(みなご)の「千年家(せんねんや)の亀石(かめいし)」のことを思いだした。念のため″亀″のことについて辞書などで調べてみると古来「鶴は千年・亀は万年」と、いわれているように長寿の象徴として長生を祝う目出たい動物と記載されていた。「千年家の亀石」の伝説は新しい年を迎える言い伝えとしては持って来いの題材だと思い、さっそく取材することにした。
 好天候だが底冷えのする朝、安富町安志の″ネスパルやすとみ″内の同町教育委員会を訪問。川畑信幸事務局長から千年家にかかわる資料をいただいたあと現地へ。
 安志地区から北方へ林田川沿いの県道を6㌔ほど行った同町皆河地区の山すその小高いところに通称「皆河の千年家」と呼ばれる、どっしりとした昔を偲ばせる入り母屋造り、茅茸き屋根、112.54平方㍍の家屋が建っていた。建築年代は明確ではないそうだが、柱の仕上げにハマグリ刃のチョウナが使われていることなど構造技法から室町末期のものと推定され、民家としては全国で一、二を争う古い建築物。昭和42年に国の重要文化財に指定されている。
 千年家の前で、同町教育委員会事務局の野中庸光局長補佐にお出あいし同家の屋内を案内していただいた。入り口に向かって右側に厩(うまや)。くど(かまど)のある土間。いろりのある茶の間。納戸。居間などがあり、床の間に伝説にいう大きな亀石が、おまつりしてあった。
 川畑事務局長からいただいた資料と同町文化協会の小坂隆雄会長にもらっていた同協会の機関誌「文協あじさい」を参考に、伝説と史実を綴り合わせたうえ、さらに想像をまじえて「千年家の亀石」のことをつづってみた。

 おお昔、神代のこと。大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命=が、播磨の国を平定するため多くの供を従えて各地を巡行の途中、同町内の皆河の里で休憩をおとりになった。そのとき、命は小高い丘にあった大きな石に腰掛けられ、里人が汲んできた冷たい湧き水を飲みながら″緑″いっぱいの山々、谷間を縫う清流、点在する民家を眺めながら、お休みになった。ひと時が過ぎて北方へお立ちになる直前お供や里人たちを前に、自分が腰掛けておられた大きな石を指差して『万年無災の亀石』と名付けられたそうだ。
 それから、ずーうと後のこと。元文5年(1740年)の冬、千年家近くの民家5戸が全焼。また、安永8年(1779年)の春、同家の下隣家から出火、7戸の民家が焼失し、同家の軒ぱたの竹林が燃え、表戸も焦げる大火事にみまわれたが、この2度の大火災の時、亀石が″ゴオー・ゴオー″と轟音をたてながら、ものすごい勢いで水を噴きあげ、千年家を災難から守ったという。こんなことから里人たちは『無災の亀石』に間違いないと、語り続けたと伝えられている。
 また、天正9年(1581年)羽柴秀吉が姫路城を築いた時と慶長5年(1600年)池田輝政がこのお城を改修した時、皆河の千年家が無災の民家という縁起から同家の桷(たるき)を天守閣の用材に加えたそうだし、安志藩陣屋の造営にも故事にならって桷片を棟木に打ち付けたといわれている。

 この千年家は昭和45、6両年にわたって大がかりな修理工事が行われ、建築当初の姿に復元。平成12年には町当局により同家周辺が整備され「千年家公園」として、いこいの場になっている。「千年家公園」は年間を通して自由にはいれるが、「千年家」は土曜、日曜、祭日(年末、年始を除く)に公開されている。団体には平日でも公開されるが、予約制になっており事前に同町教青委員会事務局への連絡が必要。
      (2005年1月掲載:山崎文化協会事務局)

亀石をおまつりする小さなお社

(52)千種町『みやげのロ-ソク』

 昭和四十七年三月、兵庫県教育委員会から発行された西播奥地民俗資料緊急調査報告『千種』の中に、当時の千種町内の古老の人たちが語られた伝説や昔話などが掲載されている。この中から『みやげのローソク』の話を選んで取材した。
 真夏のうだるような暑い日。郷土の歴史に大変詳しい千種町元教育長の上山明さんが会議出席のため山崎町へ出て来られたのを機会に、山崎文化会館でお出会いして千種町内の昔話について、いろいろ話を聴いた。
 『みやげのローソク』の昔話は″佐治谷″の人たちが、お伊勢まいりをしたときの話だが、いま千種町には″佐治谷″というところはない。しかし、前記報告書『千種』の中に記載されている昔話には″佐治谷″の人たちのことが語られたものも多い。そこで「″佐治谷″というのは、どこのことだろう…」「なぜ″佐治谷″の人のことが、千種町の古老の人たちによって語り継がれてきたんだろう…」と、いうことが話題になった。このことについて、上山明さんは「はっきりしたことは分かりませんが、昔は千種町と因幡地域(鳥取県東南部)の人たちとの交流がいまより盛んだったようです。因幡には″佐治谷″(現在の鳥取市佐治町か…)というところがあるので、ここの人たちが千種町へ来訪されたとき話をされたことが、同町の人たちによって語り継がれてきたのではないでしょうか…」と話されていた。
 前記報告『千種』に掲載されている昔話と、ほぼ変わらぬ内容になったが、そのうえ上山さんからお聴きした話を参考に、いつもながら想像もまじえて『みやげのローソク』の昔話をつづってみた。

 おそらく江戸時代のことだったんだろうー。″佐治谷″の庄屋さんの呼びかけで、村の人たち大勢が連れだって、お伊勢まいりをした。道中、宿屋や食べもの屋で、しくじりがあったが、みんな元気で機嫌よく、お伊勢まいりをすませた。帰途につく前、みんなそろって商店街を歩きながら「家族へのみやげは何がいいだろう…」「甘いお菓子にしようかな…」など、ワイワイ・ガヤガヤにぎやかに話し合っていたところ、庄屋さんが小ぢんまりした店へ立ち寄り″ローソク″を買った。連れの人たちは″ローソク″を見たことがなかったので庄屋さんに「それは何んですか…」と聞いたところ「何にって、これはみやげだよ。里に帰って親類や近所へ配ばろうと思っとるんや…」との答え。「そんなら…」というので村人たちも店内にはいり「わしも買うで…」「わしにもくれえ…」と、いいながら″ローソク″を買った。
 やっとのことで村里へ戻った人たちは、それぞれの家庭で「これは、ありがたいお伊勢さんのおみやげや…」といって″ローソク″を取り出して家族に見せた。そのころの″ローソク″はアメ色をしていたので、みんな珍しいお菓子だと思い、おお喜び。一本ずつ分け合って食べた。しかし「これなんや、何んの味もしやへん…」「ありがたいお伊勢さんのおみやげやいうのに、ぜんぜんおいしくない」など不評。でも「ほかすのにはもったいない…」と我慢して食べたらしい。
 そのあと村人たちが庄屋さん宅を訪ね「お伊勢さんのおみやげ、家族そろって食べましたが、ぜんぜん美味くないと不評でした」「あれは何んという食べものですか…」などと尋ねた。庄屋さんは「なんや…。お前ら″ローソク″を食べたんかー。あれは食べるもんじゃない、火をともすもんや。ほんとにラチもないことをする」と答えて、あきれ顔。これを聞いた村人たちは「こりゃえらいことをしてしまった。火をつけるもんなら、はよう池にはいって腹の中の火を消さないかん…」と、あわてて次ぎ次ぎ池の中へドボン・ドボンと飛び込む大騒動を起こした。
 そこで庄屋さんは「こんな状態では村里の恥になる。何んとかせねばならん…」と、それ以来、集会を聞いて先進地の町の人たちの話を聞いたり、近在の景勝地や文化施設を見学することなど続けた。その結果「″佐治谷″のもんは、みんな利口(りこう)や…」と近在の人たちにほめられるほどになったという。

 ある辞典を見てみると″ローソク″は奈良時代に中国から、わが国にはいってきたようだが、一般に普及、多くの家庭で使いだしたのは江戸時代後期かららしい。
      (2005年9月掲載:)

(62)一宮町『延命水』と『行者堂』

木づくりの「行者堂」

 美しい自然に恵まれた宍粟市一宮町一帯は、豊かな大地から、おいしくて、きれいな『水』が湧きでているところが多いといわれている。
 平成11年4月(1999年)旧宍粟郡一宮町当局は、この湧き水のうち、とくに水質のよいところを「一宮名水」に選定した。名水に選ばれたのは、同町伊和の「延命水」、同町福知の「文殊の水」、同町公文の「千年水」、同町東河内の「岡の泉」、同町河原田の「阿舎利の水」、同町公文の「藤無山の水」、同町倉床の「ふれあいの水」の七湧水。
 どの名水場も地元の人たちによって整備され「水」を飲んだり、汲んだりするのに気持よく利用できるようになつており、どこの名水場へも訪れる人たちが跡をたたず、日曜や休日には水汲みを待つ人たちの行列が出来るところもあるとか。
 その名水場のうちの一つ。伊和の「延命水」の湧出場所と隣接地に建つ「行者堂」にかかわる昔からの言い伝えがあるとの話を聞き取材することにした。
 秋晴れの爽やかな日。宍粟市山崎町の中心部から車で出発。国道29号線を12キロほど北進し、かの有名な同市一宮町の伊和神社前に到着。伝説の地への案内をお願いしていた旧一宮町の5代目の文化協会長、大井直樹さんと出会って対談。このあと地元の歴史に詳しい同町伊和に在住の旧一宮町の3代目の文化協会長、中村長吉さん宅を訪問。取材の同行をお頼みしたところ心よく引き受けてくださった。
 さっそく取材先へ向かって出発。伊和地区の国道端に立つ「延命水」「行者堂」への案内表示板に従い、林道にはいって東進。しばらく走ると道端に「句と歌の道」と刻み込んだ自然石の大きな石碑があり、そこから約250メートルにわたって道の両側に高さ約1メートル、幅約80センチの短歌や俳句を刻んだ石碑120基が、ずらり並んでいた。その中には 「延命水白山茶化に湧きやまず」という句碑も見られた。「句と歌の道」を過ぎると昔からの言い伝えのある「延命水」と「行者堂」のある山すそに着いた。
 「延命水」の取水場は大きな自然石を積んで作られており取水口は二つ。一つには“行者の霊水”もう一つには“延命水”と書かれた札が下げられていた。そばに立つ案内板には「この水は渓川の水ではありません。霊山の水で名づけて延命水と申します。すでにあらたかな霊験も顕われております」と記載されていた。「行者堂」は古風な木造だった。
 中村さんと、大井さんから聞いた話と「宍粟市いちのみや名水MAP」を参考に想像もまじえて「延命水」と「行者堂」にかかわる昔からの言い伝えをつづってみた。

 いまから、およそ250年前の江戸時代、伊和の里(現在、一宮町)に若い男の賢者が住んでいた。賢者は仏道を究めるため奈良の大峰山の根本霊場へ行き長期にわたって修行。たびたび大峰山に入って修行の功を積んだ人に贈られる「大峰先達」の位までもらって帰郷した。賢者はその後も地元で修行を続けたいと、伊和地区の東方、樹林の中に三つの滝が落下、きれいな湧き水もでている山ろくを見つけ、そこに木づくりの小さな「行者堂」を建てた。賢者は滝に打たれて身を清めたあと「行者堂」に、こもって読経を続け、疲れると、きれいな湧き水を飲んで元気いっぱいの修行を続行した。この様子を知った近在の人たちが、つぎつぎ「行者堂」を訪ね、賢者の指導を受けながら修行を繰りかえし仏道を究めたとのこと。

 「行者堂」から約600メートル奥地にはいると昔、行者が身を清めた三つの「行者の滝」があるというので、そこへも案内してもらった。山の谷間に、そそり立つ広大な岩盤の中に落差20メートルを超える滝が並んで見えた。一つの滝は飛沫をあげながら勢いよく落水していたが、ほかの二つは落水がなく岩膚が濡れているだけだった。中村さんは「昔は三つの滝とも激しい落水があったそうだが、いまは一つだけが常時、落水。あとの二つは雨が降ったあとだけ水が落ちている」と話しておられた。
  (平成19年11月掲載:宍粟市山崎文化協会事務局)

「延命水」の取水口

(47)一宮町『西公文の権現さま』

川上神社

 一宮町公文で「権現さま」にかかわる伝説が語り継がれていると聞き取材した。
 さわやかな秋晴れの朝、山崎町を車で出発。国道を北進して一宮町曲里の信号機のある交差点を右折。県道を更に北へ進み、同町三方町にある歴史資料館を訪ねた。
 同資料館では、同町文化協会の大井直樹会長、同資料館の田路正幸学芸員、郷土史に詳しい同町公文在住の小椋徳文さんの三氏にお目にかかり、テーブルを囲んで「権現さま」についての、いろいろの話を聞かせていただいたあと、伝説ゆかりの地-同町公文の「川上神社」と、その近くの「おかま滝」に案内してもらった。
 同資料館から北へ、およそ3㌔行った公文のケヤキやヒノキの巨木が林立する森の中に「権現さま」をおまつりした「川上神社」があった。厳(おごそ)かな社殿。参道入口には「権現さま」のことなど神社の由緒を刻み込んだ立派な石碑が建っていた。また、神社にほど近い揖保川の源流に落差1㍍余の「おかま滝」という小さな滝があり、隣接の岩盤に「権現さま」が乗られた神馬の蹄(ひづめ)のあとと伝えられるおおきな窪みがあった。
 大井、田路、小椋の三氏から聞いた話と一宮町史を参考に想像をまじえて「権現さま」にまつわる伝説をつづってみた。

 昔、むかしのこと。同町三方地区で一番高い但馬境にそびえる志倉山(現在の藤無山・標高1139㍍)の頂上に「権現さま」がおられた。「権現さま」は天災・病気など諸悪を迫っばらって下さるというので近在の里人たちの信仰が厚く、おまいりする人たちが後を絶つことがなかった。
 いまから890余年前、平安時代、天永年間のころ、公文の村里のお年寄りの中から『「権現さま」が高い山の天辺(てっぺん)に一人ぼっちでおられるのは寂しいだろう…』『しょっちゆう「権現さま」に、おまいりしたいが、年をとると険しい山道を長時間かけて登らんと志倉山の頂上まで行けんのが苦労の種や…』など、との声が高くなった。そこで、里人たちが集会を開いて相談。『「権現さま」を村里へお迎えして懇(ねんご)ろにおまつりし、盛大な祭事をしよう』と決めた。
 さっそく村里代表の人たちが「権現さま」におまいりして『公文の村里へおいで下さい』と心を込めてお願いした。しかし「権現さま」からは何の返事もなかった。その後も代表の人たちが同じお願いを続けていたところ、ある日、「権現さま」から『但馬の若杉と波賀の道谷からも同じ願いを聞いている。三地区の里人たちで相談の上、迎えに来てくれ…』との、お告げがあった。
 数日後、三地区の里人たちが集まって相談会を開き、激論をたたかわせた結果、『吉日を選び、その日の一番鶏が鳴くのを合図に各地区を出発。志倉山の頂上へ一番早く登り着いた地区へ「権現さま」をお迎えすることにしよう…』とのことを決め、このことを「権現さま」に申しあげた。
 公文の村里では足の速い元気いっぱいの若者数人を選んで吉日を待った。いよいよ実行の吉日がやってきた。若者たちは志倉山の麓の森の中に勢ぞろい。一番鶏の鳴き声を聞くと同時に山頂を目指して出発。汗だくだくになりながらも小走りで登山。やっとのことで頂上にたどり着いた。若杉、道谷二地区の人より早く一番乗りだった。息せき切りながら、みんなで声をそろえて『「権現さま」お迎えにまいりました』と祈願した。すると「権現さま」は『よし…』と答えて神馬にお乗りになり、空を飛ぶような、すごい勢いで公文の里へお移り下さったという。その時の神馬の蹄(ひづめ)のあとが揖保川源流に落ちる「おかま滝」に隣接する岩盤にある窪みだと言い伝えられているとのこと。

 川上神社では毎年4月25日に春祭り、9月10日に秋祭りが、にざやかに催されているそうだ。
          (2004年11月掲載)

神馬の蹄の跡

(41)引原八幡神社『道貞物語(どうていものがたり)』

 平成3年、当時の波賀町農業協同組合が発行した波賀八幡神社の小林盛三宮司の著による「ふるさとの伝説」の本を読んだ。その中の引原八幡神社の項に「道貞物語(どうていものがたり)」と題して小兵(こひょう)の道貞が大柄の力士を投げとばすという、ちょっぴり胸のすくような奉納相撲の伝説が記載されていた。楽しそうな伝説なので、さっそく取材することにした。
 さわやかな秋晴れの日、波賀町教育委員会の岡田博行生涯学習課長を訪ね、取材の協力をお願いして引原八幡神社へ向った。音水湖沿いの国道を北進、まもなく同町引原字高山に到着。国道から急坂を登るとスギ林の中に同神社があった。
 神社参道で、この地域の昔のことに詳しい地元の田村角太郎さん(85)にお出会いし、神社内を案内していただいた。威厳のある本殿はじめ随神門。近在では珍しいといわれる神仏混合時代の名残をとどめる阿弥陀堂などが建っていた。この神社のご祭神は古くから旧引原地区中心部の広大な森の中におまつりしてあったが昭和三十年、引原ダム建設工事のため、この地に遷座なさったとのこと。近くの田村さん宅に立ち寄り道貞のことや昔のお祭り行事のことなど聴いた。
 このあと同町安賀の特別養護老人ホーム「かえで園」を訪ね、たまたま同園に来ておられた「ふるさとの伝説」の著者、小林宮司にお目にかかり道貞物語について、いろいろの話を聴き「ふるさとの伝説」の記載文の一部を転載するお許しを得た。 岡田課長、田村さん、小林宮司さんから聴いた話と「ふるさとの伝説」。さらに同町文化協会発行の「ともしび」第73号に掲載されていた引原八幡神社の宮総代、加納宏教さんが書かれた「引原八幡神社について」の記事を参考に、想像もまじえて「道貞物語」の伝説をつづってみた。

 むかし、昔、引原八幡神社の社守として小柄だが力持ちの道貞という若者がいた。道貞は神社の建物を管理するだけではなく、お祭りなどの世話も骨身おしまず努め、地域の人たちに親しまれていた。ある年の秋祭りの時のこと。例年通り弓やお旅の行事があったあと、そのころ大変な人気のあった奉納相撲が始まった。出場するのは地元はもちろんのこと、遠く因幡、但馬などから山越えでやって来た若い力士ら約80人。観客はわんさとつめかけ、土俵の回りを埋めつくしていた。この日は、因幡からやって来た大柄で腕っぷしの強い力士が大活躍。地元の力士らを次ぎ次ぎ投げとばし、最後に土俵の中央に仁王立ち「もう、わしの相手になるもんはおらんのか…」と、大声で何回もどなった。しかし、だれも土俵にあがるものはなかった。
 この様子を本殿から見ていた社守の道貞が「ここにおる…」と声高に叫び、素早く境内に建っていた幟竿(のぼりさお)の孟宗竹を引き裂き、これを回しにして土俵にあがった。小柄な道貞を見た因幡の力士は″ニヤリ″と、ほくそ笑んだ。いよいよ勝負。双方見合って立ち上がった。道貞は思い切り低く出て両手で相手の前みつをつかみ、因幡の力士は道貞の背中に手を伸ばして回しをわしずかみした。「危ない、つられる」と思った道貞は、のけぞって因幡の力士を土俵中央にそり返して投げ倒した。「ワァ…」「ワァ…」と地元びいきの観客がどよめき、よろこびの声が、しばらくやまなかった。神助けというか、奇蹟というか、これは道貞の闘魂の賜物(たまもの)。
 勝名乗りを受け、再び本殿にもどった道貞はフーフー吐く息は荒く、顔は真っ赤で鬼の面そっくり。これを見た観客の多くが「アーお宮に鬼が出た」と、びっくり仰天して逃げ帰ったという。

 田村さんは「親父から道貞は160㌔ほどある昔の桶風呂を湯のはいったまま背負ったとか、それより重いケヤキの原木をかついだとか聞きました。大柄の力士に勝ったのは道貞の怪力だったと思う。」と話されていた。
    (2003年11月掲載:山崎文化協会事務局)

(31)下牧谷 『観音山の片目の魚』

 山崎町下牧谷に『観音山の片目の魚』の伝説があると聞いた。
さっそく山崎郷土研究会の大谷司郎会報部長を訪ね伝説地への取材同行をお願いした。
 冬型の気圧配置が強まり、いつになく激しい雪が降りしきる朝、伝説の地に向かった。
同町中心部から県道山崎-内海線を通り、伊水小学校近くから左折して下牧谷地区へ。
途中、地元の歴史に詳しい藤田始男さん宅に立ち寄り、
そこで大谷部長と藤田さんから観音山にかかわる、いろいろの話を聞いた。
 このあと藤田さんの案内で観音山へ登った。同地区公民館の横手から林道にはいり、
その終点の隣接地に近在の人たちが〝観音堂″と言っている「石水山・観世音菩薩・金蔵寺」が建ち、
お堂を取り囲むように伝説の「片目の魚」が生息していると語り継がれている池があった。
広さは約80平方㍍、水深は約10㌢。
きれいな水の中を地元で〝アブラジャコ″=カワムツ=といわれる
体長3-10㌢くらいの魚がたくさん泳いでいた。
 池のすぐ横。山の岩間からは透き通った清水が流れ落ち、竹の樋を取り付けた水飲み場が作られ、
お堂の前には昭和62年、公認検査機関、社団法人、
姫路市医師会による水質検査結果を刻み込んだ大きな石板が建てられていた。
地元では「観音さまの名水」と言われており、遠方から水を汲みに来る人たちもあるとのこと。
 大谷部長と藤田さんから聞いた話と「蔦澤の伝説と民話集」を
参考に想像もまじえて、この伝説をつづってみた。

 いまから422年前の天正8年(1580年)同町神野、
蔦沢両地区にまたがる長水山頂(高さ584㍍)に築城されていた長水城(当時、宇野政頼城主)が
織田信長から中国地方平定を命じられた羽柴秀吉軍の攻撃を受け落城した。
このとき命がけで城を脱出した士気旺盛な武士たちが、
お城から約1.5㌔離れた同町下牧谷地区の観音山の麓にある大きな寺院に立て寵(こも)り、
羽柴軍と死闘を繰り広げた。しかし、多勢に無勢とあって敗戦。火矢を打ち込まれた寺院は全焼。
この火が山林に燃え広がり、山の中腹にあった奥の院・観音堂も焼けてしまった。
お堂の側(そば)には小さな池があり、多くの魚が生息していたが、猛烈な火の手のため、
池の水が熱湯となり、大半の魚は死んでしまった。
ところが、たまたま山の谷間から池へ流れ込む冷たい水のほとりにいた魚は熱湯の被害から免(まぬが)れ、
片目は失なったが、なんとか生き残った。それ以来、この池で育った魚は、すべて片目だったと伝えられている。
しかし、いまの観音堂の池の魚は、長い間かかって片目が元の両目に回復したのか?、
ほかの魚が生息するようになったのか?、のぞき見る限りでは五体満足な魚ばかりのようだった。

 また、地元の古老の話によると観音山の流水は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の大悲の智水といわれ、
この水をいただくと健康長寿に恵まれると語り継がれてきたという。

 ここの観音堂のお祭りは例年8月9・10両日。開扉祭は21年に1度、
近年では平成11年4月に催され拝観の人たちでにぎわったそうだ。
     (2002年3月掲載)

観世音菩薩のお堂
伝説「片目の魚」の池

(40)一宮町『御形(みかた)神社』

御形神社

 夏空が広がる暑い日。一宮町森添の御形神社にかかわる伝説の取材に出かけた。
 まず最初、同町三方町にある町立歴史資料館の田路正幸学芸員を訪ね、関係資料をいただいたあと同行をお願いして御形神社へ。
 進藤千秋宮司にお目にかかり、居宅の応接室で進藤宮司と田路学芸員から、いろいろの話を聴き、広い境内と、その近くにある伝説の地へも案内してもらった。お二人から聴いた話と関係資料を参考に、想像もまじえて同神社にかかわる伝説をつづってみた。

 大むかしのこと。同神社の祭神、葦原志許男神(あしはらのしこおのかみ)=大国主神(おおくにぬしのかみ)=と渡来の天日槍神(あめのひぼこのかみ)との国占めの争いが揖保川沿いをはじめ各地で繰り広げられた。長期にわたる激しい争いだったが、
なかなか決着がつかなかった。そこで、お二人の神様が話し合いをされ「御古里の北部にある志爾嵩(しにだけ)(現在の高峰山・標高845㍍)の頂上から黒葛(つづら)を三條(みかた)、足にからめて投げ、その黒葛が落ちたところを、それぞれ占有統治しよう…」との約束をされた。
 ある爽やかに晴れた日。お二人の神様が高峰山の頂上に立たれ、多くの従者や里人たちが見守る中、黒葛を3條ずつ足にからめて空高く投げ合われた。
 天日槍神のものは、すべて但馬地域に。葦原志許男神のものは1條目が但馬の気多(けた)郡(城崎郡)、2條目が夜夫(やぶ)郡(養父郡)、3條目が御方里(みかたのさと)へ落ちた。その結果、天日槍神は但馬地域。葦原志許男神は御方里はじめ播磨の国を占有されることになったと言い伝えられている。
 お二人の神様が投げられた黒葛は、山に生えているツヅラフジの直径数㍉の細い蔓(つる)を束ねて輪にした軽いものだったようだ。
 また、三條の「條」は辞典に「細長いものを数える言葉」と記してあった。
 葦原志許男神は、そのあと占有地域の土地開発、農業振興などに努力され、なんとか幸福で平和な国造りが出来たので、出雲の国(現在、島根県)へ、お帰りになることになった。そこで、この地、高峰山を去られるに当たって愛用されていた杖を「形見」として山頂に刺し植え、行在の標(しるし)とされた。この「形見」が「御形」と変化して同神社が「御形神社」と名づけられたと語り継がれている。
 その後、神様が杖を刺し植えられた高峰山の頂上に、里の人たちが力を合わせて社殿を建立。葦原志許男神をおまつりしたのが同神社の創祀と伝えられている。
 ときは移り、奈良時代の宝亀3年(772年)のある夜。数人の里の人たちが「山すその森の中に一夜にしてスギの大木3本が生えた」という同じ霊夢をみた。
 この夢のことが、たちまち里中に広まり、みんなが連れだって森へ行ってみたところ、いままで見たこともないスギの大木3本が向い合うような形で、
 そびえ立っていた。おどろいた里人たちは、さっそく集会を開いて相談。「高峰山頂の祭神が、きっと、この森への遷座を望まれているのだろう…」ということになり、里人たちが協力。一夜にして生えたスギの大木に近い山すそ一帯を整地して立派な社殿を建て、高峰山頂から神様をお迎えして、おまつりしたのが現在の御形神社の起源と伝えられている。

 昭和42年、国の重要文化財に指定された極彩色の本殿の直ぐ裏側には伝説のスギだという巨木1本がそびえており、「夜の間(よのま)杉」と呼ばれている。
 また、高峰山からご祭神が現在地へ遷座なさるとき、山から同神社近くの坂下の小さな丘にとび降りられたが、たまたま、そこにユズの木があり、そのトゲで目を傷つけられた。このため、この里ではユズが実らなくなったとも言い伝えられている。いま、ご降臨の地には大きな石碑が建っている。

      (2003年9月掲載:山崎文化協会事務局)