(82)生野義挙録

前編    (宍粟市山崎町木ノ谷)  <13分26秒>
文久三年(1863)但馬国生野で挙兵に失敗した尊攘派の志士たちが、この宍粟へ逃れてきます

後編    (宍粟市山崎町木ノ谷)  <15分52秒>
農民たちに追い詰められた志士の一行は山崎の木ノ谷の地で最期を迎えることに・・・

(81)「西山由来記」

 前編  (宍粟市山崎町市場・高下)   <10分14秒>
 津山藩お取り潰しによって浪人となった時朝五郎左衛門は、神保という集落に身を寄せます

 後編  (宍粟市山崎町市場・高下)   <14分44秒>
 村の財産である西山が没収されると知った五郎左衛門は、決死の覚悟でお上に抗議します

(64)千種町『鉈取淵(なたとりぶち)』

伝説の『鉈取淵』

 こんどの「サンホールやまさきニュース」の「郷土の伝説と民話」のシリーズには、宍粟市千種町内で語り継がれている伝説を掲載したいと思って準備をすすめていたところ「同町の奥地に“鉈取淵”という言い伝えがありますよ…」との話を間き、取材することにした。
 さっそく、同町内での伝説取材のとき、いつも大変お世話になっている同町・元教育長の上山明さんに電話。伝説の現場への案内をお願いした。上山さんから「よろしい。案内しましよう…」との、うれしい返事があった。
 激しい降雪のあった翌日。とても寒い日だったが、同市山崎町の中心部を車に乗って出発。道路の凍結を心配しながら千種町へ。同町内では同市千種市民局で上山さんにお出会いし、短時間だったが話し合いをしたあと、伝説の現場へ案内していただいた。
 同市民局から同町と鳥取県をつなぐ県道を7キロほど北進した同町河呂地区の谷川に“鉈取淵”があった。道路ぱたに車を止め、積雪50センチほどの広場の中を滑ったり、転んだりしながら、およそ50メートル歩き、やっと伝説の現場に着いた。
 “鉈取淵” は、同町を縦貫して流れる千種川の源流近くの川幅およそ7メートルの谷川にあり、延長17メートルほどの流水のよどみが“鉈取淵” だった。淵の水深は推定2メートルくらい。付近一帯は野も山も厚い雪におおわれて美しい雪景色を描きだしていた。
 上山さんからお聞きした話と、昭和47年発行の兵庫県教育委員会による「西播奥地民俗資料緊急調査報告“千種”」に掲載されている“鉈取淵”の項を参考に想像をたくましくして “鉈取淵” の伝説をつづってみた。

 むかし、昔のこと“千草の里”(現在の宍粟市千種町)に優しい娘さんと実父、継母(ままはは)の3人暮らしの一家があった。娘さんは18歳。当時、結婚適齢期といわれた「年ごろ」だったが、結婚のことよりも親を助けて働くことに懸命だった。炊事、洗濯、掃除はもちろんのこと、田畑での農作物づくり、山仕事などにも精を出しており、近所では「よく働く、いい娘さんだ…」と評判になっていた。
 ある日のこと、自宅から少し離れた山へ出かけ、鉈=薪などを割るのに用いる、短く厚く幅の広い刃物(広辞苑より)で若木を切って薪づくりに汗を流していたが、ちょっぴり疲れたので、山すそ近くを流れる谷川の土手でひと休み。このとき身近なところに置いていた“なた”がなぜだかスルスル土手をすべり、川の淵に落ち込んでしまった。
 そのころの淵は水深が3メートル以上もあり、娘さんが “なた” を拾おうと懸命に努力したが “なた” を見つけることが出来なかった。辛い思いをしながら帰宅。継母に「なたを谷川の淵に落としてしまい、あちこち探しましたが見つかりませんでした」と話をした。ところが、継母は「娘が山仕事をするのがいやだと思って “なた” を淵に捨てたんだろう…」と誤解し「なに言ってるの  “なた” を捨てるほど仕事をするのがいやなんだろう。ばかやろう…」と怒鳴りつけた。
 娘さんは、継母の言葉にびっくり。再度 “なた” がなくなった淵へ行き、長時間にわたって “なた” を探していたが、ひどい疲れがでてしまったためか、あやまって淵の深みに落ち水死してしまった。父親は娘さんの死が悔しくて涙を流し続け、近所の人たちの同情をあつめた。
 その後、なんだか訳がわからないが、誰彼言うことなく、この淵の近くを “なた” を持って通ると “なた” が淵の中に吸い込まれて行方不明になり、淵底から「 “なた” をかえして、かえして。その “なた” ではない…」との声が聞こえたとか…。

 前記の県の教育委員会の“千種” “鉈取淵”の項には、娘さんが水死したあとのことについて『その後、この淵の周辺で鉈を手放すと、鉈は生物のように淵にすべり込み、やがて「鉈をかえせ、鉈をかえしてくれ」と訴え、次に「違う、違う、これではない」と泣き叫ぶ声が聞こえると伝えられ、今もここでは鉈を手放すことを禁じている』(原文のまま)と記載されている。
   (平成20年3月:宍粟市山崎町文化協会事務局)

(49)西鹿沢『いたずらキツネ』

いたずらキツネが出没していたという西鹿沢の通町付近

 キツネにまつわる伝説は各地にあるが、山崎町西鹿沢でも「いたずらキツネ」の話が語り継がれていた。
 同町教育委員会の大谷司郎社会教育課長からお借りした山崎郷土研究会発行の″山崎郷土会報″の綴りを読んでいたところ、昭和51年発行の会報No.48号に同研究会の会長だった故・堀口春夫さんが書かれた「民話小噺(こばなし)」と題する項目の中に
「いたずらキツネ」のことが掲載されていたので、この話を知った。
 江戸時代の話だったので当時の山崎藩のことについて大変詳しい同町鹿沢の横井時成さんを訪ね、お話を聞いたり資料をいただいたりした。このあと堀口さんが書かれた山崎郷土会報に掲載された記事を再録するような形になったが、これに、ちょっぴり想像もまじえて「いたずらキツネ」の話をつづってみた。

 いまから300余年前の江戸時代初、中期のころ、同町西鹿沢の南と北を結ぶ道路の一つ、通町(とおりちょう)付近で、地元の人たちをびっくりさせるような出来ごとが相次いでいた。いずれも夜中のこと。
「山崎藩の武士が御殿からご馳走の残りを重詰にして帰宅する途中、知らぬ間に馬糞(ばふん)入りの重詰に、すり替えられていた」とか。
「暗い道なのでローソクに火をつけた提灯の明かりをたよりに通行中、なにものかに火を消され、溝に落ちて大ケガをした」とか。
「大木のような巨大な、お化けがあらわれ腰をぬかした」など、など。町の人たちは、いずれも「いたずらキツネ」の仕業だと話し合っていた。
 そのころ、同町西鹿沢と段両地区の境界の直ぐ北側に山崎藩の治安を守るための「鶴木門」という大きく立派な門があった。
「惣門(そうもん)」ともいわれ、冬は暮れ六つ(午後6時)になると大扉を閉じ、よほどの急病人でもない限り通行が許されなかった。門の横には番所があって番士が交代で張り番をしていた。
 ある日。弥左衛門という番士が宿直をしていたところ、夜おそく門をたたく音がし「弥左衛門、弥左衛門さん、門を開けて下さい、急病人が出たのでお願いします」との声。弥左衛門さんは寝たばかりのときだったので、目をこすり、こすり番所を出て小門を開けてみた。しかし、誰もいない。「はてな…空耳だったのかな…」と思いながら番所にもどって仮眠の床にはいった。
 しばらく、うと・うと、していると、また「門を開けて下さい。急病人です」との声。弥左衛門さんは、やっと体がぬくもりかけたところだったので、いやいやながら外に出て小門を開けてみたが、やっぱり誰もいない。
「おかしいなあ…」と一人ごとを言いながら、また床の中にもぐり込んだ。すると、今度は一段と大きな声で「早く門を開けて…」と繰り返し叫び始めた。
 うるさくて仕様がないので再度、小門を開けてみたが、やっぱり誰もいない。「くそ…」「これは、よっぽど、いたずら好きの小僧の仕業に違いない。こっぴどく、こらしめてやろう」と番所にもどらず、門の小脇の軒下にかくれて待っていたところ、しばらくすると大きなキツネが太い尻尾を振りながら門の前にあらわれた。
 「おやー!!」と弥左衛門さんは驚いたが、息をひそめて様子を見ていると、キツネが門の扉の前で逆立ちになり、うしろ足を扉にかけ太い尻尾で ″トン・トン″と戸をたたきながら人声に似せて「弥左衛門さん、門を開けて下さい」と言いはじめた。腹を立てた弥左衛門さん「おのれキツネめ。人をだましやがって…」と六尺棒をにぎって表へ跳び出し「こなくそ…」とキツネの頭を一撃。不意をくらったキツネは六尺棒で脳天を打たれてはたまらない。神通力を失って失神した。弥左衛門さんは、キツネの足を縛りあげ翌日、門の前につり下げて見せものにした。そのあと「これからは絶対人をだますなよ…」と怒鳴りながら放してやったが、それ以降キツネのいたずらは、すっかりなくなったという。
    (2005年3月掲載:山崎文化協会事務局)

(63)波賀町水谷『イボかみさま』

石碑の『イボかみさま』

 お正月に発行される『サンホールやまさきニュース』の“郷土の伝説と民話”のシリーズには「新春にふさわしい明るく楽しい伝説を掲載したい」と思い、宍粟市内あちこちのお年寄りの方々に、「なにか、明るい伝説をお聞きになったことはありませんか?」と尋ねていたところ、ある古老の方が、「はっきりしたことは知りませんが、波賀町水谷にイボの治療を叶えてくださる『イボかみさま』が、おまつりしてあるそうです。なんだか、明るい言い伝えがありそうだと思うんですが…」との話をしてくださった。
 さっそく、いつもお世話になっている波賀町文化協会の大成みちよ会長に電話。「同町内の水谷に今も『イボかみさま』がおまつりしてあるんでしょうか?」と問い合わせた。しばらくすると大成会長から「水谷在住の地域のことに詳しい方に聞いたんですが『イボかみさま』は今もおまつりしてあります」との返事をいただいた。
 いまにも雨が降りそうな年の瀬に近い曇天の朝、同市山崎町の中心部を車で出発。国道29号線を北進して波賀町へ。大成会長宅を訪問して取材の同行を依頼。引き続き車で同町水谷地区へ向かった。同町上野地区の国道29号線の交差点から同町と同市一宮町北部を結ぶ国道429号線に人り、およそ3キロ東進して水谷地区へ着いた。同地区では、地元のことに大変詳しい山村堅太郎さんに、お出会いし『イボかみさま』がおまつりしてあるところへ案内していただいた。
 『イボかみさま』は、同地区にあるヤマメ・アマゴ水谷養魚場の直ぐ側の道路近くの山すそにおまつりしてあった。お祠(やしろ)ではなく、高さおよそ2メートル、幅1メートル余の大きな石碑だった。石碑の台石には、直径およそ40センチの窪みのある石が備え付けられ、透き通った水が溜まっていた。
 山村さんは「昔からの『イボかみさま』は、ここからちょっと離れた山すそにありました。大きさは、今の石碑の3倍くらい。岩のなかに窪みがあり、いつもきれいな雨水が溜まっており、この水をイボにつけると、すっかりイボが取れたそうです。そこで地元の人たちが話し合い、イボを取ってくださるのは神様の御陰だろうと、この大岩を『イボかみさま』と名づけておまつりしたとのことです。しかし20年ほど前、道路の改修工事が施工されたとき、やむを得ず移動せねばならぬことになり、現在地へ移っていただいておまつりしました」と話されていた。
 『イボかみさま』の伝説については、大成会長、山村さんと話し合いをしたうえ、想像をたくましくして次のようなことだったのではないかと考えてつづってみた。

 昔、むかしのこと。水谷地区に畑仕事、家事など、よく働く年頃の娘さんが住んでいた。気がやさしく真面目で美人とあって地域の人気ものの一人でした。娘さんは日ごろは極めて平穏な生活をしていたが、ただ一つ辛いことがあった。それは、足の指先にイボができ、急いで歩くとすごく痛むことだった。
 ある日の夜、娘さんの夢路に清楚な身なりをした神様が現れ、「娘さんよ、足の指先にイボができ、歩くと痛むので困っているそうだね。いまから私の言うことをよく聞いてイボの取れる治療をしなさい。奥水谷の道ばたに大きな岩がたっており、その岩の中央に窪みがあって、いつもきれいな雨水が溜まっている。その水を指先にできているイボにつけてみなさい。きっとイボがとれますよ。しかし、イボに水をつけたあとは決して振り返らず帰宅しなさい」との託宣があった。
 娘さんは、夜の明けるのを待って、神様がおっしゃった通りの大岩のあるところへ行き、岩の窪みに溜まっていた、きれいな水を足の指先のイボにつけ、振り返ることなく急いで帰宅した。そのあと同じことを数日繰り返し続けていたところ、すっかりイボが取れてなくなった。娘さんは大よろこび。このことを家族はもちろんのこと、近所の人たちにも話した。
 すると、この話を聞いたイボができて困っている近在の多くの人たちが大岩をたずね、窪みに溜まっている水をイボにつけての治療に励んだためか、「振り返るな…」の約束を守っておれば、だれのイボもすっかり取れていたとのこと。前記したように、こんな有り難い大岩だったので、水谷地区の人たちが相談を重ね、『イボかみさま』としておまつりしたという。

 旧波賀町教育委員会から平成3年3月に発行された『ふるさとの文化財』の本の中には『イボかみさま』のことを『イボ石』という題で「昔から水谷部落の人々は、誰かれともなしに“イボが出来るとイボ石のつぼの水をつけるとなおる”と言って、へこんだ石に溜まっていた水をいただきによくお参りしていたそうだ。石をおがんだ後、石が見えないようになるまでは、絶対に後を振り向かずに家まで帰らないといけない。もし後を振り向くとご利益は消えてしまうそうである」(原文のまま)と記載されている。
  (平成20年1月:年宍粟市山崎文化協会事務局)

(53)山田『田町逆川 眼が治る』

かつて“逆川”が流れていた山田地区南部付近

 このシリーズでは、いままでに宍粟市山崎町内の伝説・民話が23回掲載されたが「まだ、記載しておかねばならぬ伝説・民話があるはず…」と思案。同町内の古老の方々に「何か、いい話はありませんか…」と尋ねたり「山崎郷土会報」を読んだりしていたところ、昭和48年5月発行された同会報42号のなかに同町山田の故・福井詫二さんが書かれた『田町(たまち)逆川(さかがわ)眼が治る』と題する伝説が掲載されていたので、さっそく取材した。
 秋晴れの日。少・青年期の昭和23年まで伝説の地、同町山田地区に居住されていた同町内の総道老人クラブの前会長、柳田弘さん宅を訪問。逆川の伝説にまつわる話を聴かせていただいた。
 柳田さんは「私が山田地区に住んでいたころ、自宅の直ぐ前の道路を隔てた西側に逆川が流れていました。延長およそ60㍍、幅60㌢ほど。両側に石積みの縁(ふち)があり、きれいな水が南から北へ流れている珍らしい小川でした」。「この川の水で目を洗うと眼病が治るという伝説は、子供のころ両親や近所のお年寄りからよく聞きました。小学生だった昭和初年度には小川で目を洗っている人の姿をよく見かけました」など、話して下さった。このあと、ご無理を申しあげ、伝説の現地へ案内していただいた。
 逆川は同町山田地区の南部。道端に寛政九年(1797年)建立と刻み込まれた「因幡街道」の道標の立つ国道29号線と町道との交差点の西詰めから北へ流れていたそうだが、いまは同国道の側溝になり、昔の小川だった面影は全くなくなっていた。ただ一つ、側溝の水が南から北へ流れているのが、かつての小川の名残をとどめているように思えた。
 伝説の題名に同町山田地区のことが″田町″と記載されているのは、むかし同地区が旧山崎の中心街から、ちょっと離れたところにあり、住家が少なく、田んぼが大きく広がっていたので、町の人たちから″田町″と呼ばれていたことから。また″逆川″は、同町付近で一番大きい揖保川が北から南へ流れているのに伝説の小川は、揖保の流れとは反対の南から北へ逆さま流れだったので、″逆川″と言われていたらしい。
 柳田さんから聴かせていただいた話と、故・福井さんが会報に書いておられた伝説を参考に、いつもながら想像もまじえて『田町逆川眼が治る』の語り継ぎをつづってみた。

 むかし、昔のこと。播磨の国を巡礼中のお坊さんが、当時は野原だった山崎町山田地区に差し掛ったとき、患っていた目が急に痛くなった。あわてて道端にしゃがみ苦痛に耐えながら「神様・仏様お助け下さい…」と、心を込めてのお祈りを続けていた。その時、ふと横を見ると、きれいな水の流れる小川があるのに気が付いた。さっそく、両方の手のひらを合わせて清水を掬(すく)いあげ、繰り返し目を洗っていたところ、すう…と痛みがなくなった。お坊さんは痛みから開放されて大喜び。神様・仏様にお礼のお祈りをしながら小川をよく見ると、この近在には滅多にない南から北へ水の流れる逆川だった。
 お坊さんは、その後も元気で、あちこちへの巡礼を続行。目の痛みがなくなったことが嬉しくてたまらず、会う人、会う人に「逆川の水で目が治った」との喜び話を語り続けた。
 この話が、たちまち近在に広まり、それ以来、目の悪い人たちが山田地区の逆川にきて清水で目を洗う姿が、あとをたたなかつた。「とくに名月の夜、この川で目を洗うと効きめが一段とよい」との噂も広がり、仲秋名月の夜には逆川一帯は大勢の人たちで、ごった返し、順番を待って小川の縁にずらり並んで目を洗ったそうだ。その夜、目を洗った人は帰宅するとき決して後ろを振り向くな…という奇習もあって、みんな目を洗つたあとは、一途に家路を急いだという。なお、推測だそうだが、いまから1000年ほど前の平安時代に揖保川で大洪水が発生。同町山田地区へ、どっさり土砂が流れ込んだ。その時、同地区南部に厚く、北部に薄く堆積したため高い南から低い北へ水が流れる逆川になったとか…。
     (2005年11月掲載)

(48)安富町『皆河(みなご)の千年家の亀石』

皆河の千年家

 「新春にふさわしい明るい伝説はないかなあー」と、考えていたところ、安富町皆河(みなご)の「千年家(せんねんや)の亀石(かめいし)」のことを思いだした。念のため″亀″のことについて辞書などで調べてみると古来「鶴は千年・亀は万年」と、いわれているように長寿の象徴として長生を祝う目出たい動物と記載されていた。「千年家の亀石」の伝説は新しい年を迎える言い伝えとしては持って来いの題材だと思い、さっそく取材することにした。
 好天候だが底冷えのする朝、安富町安志の″ネスパルやすとみ″内の同町教育委員会を訪問。川畑信幸事務局長から千年家にかかわる資料をいただいたあと現地へ。
 安志地区から北方へ林田川沿いの県道を6㌔ほど行った同町皆河地区の山すその小高いところに通称「皆河の千年家」と呼ばれる、どっしりとした昔を偲ばせる入り母屋造り、茅茸き屋根、112.54平方㍍の家屋が建っていた。建築年代は明確ではないそうだが、柱の仕上げにハマグリ刃のチョウナが使われていることなど構造技法から室町末期のものと推定され、民家としては全国で一、二を争う古い建築物。昭和42年に国の重要文化財に指定されている。
 千年家の前で、同町教育委員会事務局の野中庸光局長補佐にお出あいし同家の屋内を案内していただいた。入り口に向かって右側に厩(うまや)。くど(かまど)のある土間。いろりのある茶の間。納戸。居間などがあり、床の間に伝説にいう大きな亀石が、おまつりしてあった。
 川畑事務局長からいただいた資料と同町文化協会の小坂隆雄会長にもらっていた同協会の機関誌「文協あじさい」を参考に、伝説と史実を綴り合わせたうえ、さらに想像をまじえて「千年家の亀石」のことをつづってみた。

 おお昔、神代のこと。大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命=が、播磨の国を平定するため多くの供を従えて各地を巡行の途中、同町内の皆河の里で休憩をおとりになった。そのとき、命は小高い丘にあった大きな石に腰掛けられ、里人が汲んできた冷たい湧き水を飲みながら″緑″いっぱいの山々、谷間を縫う清流、点在する民家を眺めながら、お休みになった。ひと時が過ぎて北方へお立ちになる直前お供や里人たちを前に、自分が腰掛けておられた大きな石を指差して『万年無災の亀石』と名付けられたそうだ。
 それから、ずーうと後のこと。元文5年(1740年)の冬、千年家近くの民家5戸が全焼。また、安永8年(1779年)の春、同家の下隣家から出火、7戸の民家が焼失し、同家の軒ぱたの竹林が燃え、表戸も焦げる大火事にみまわれたが、この2度の大火災の時、亀石が″ゴオー・ゴオー″と轟音をたてながら、ものすごい勢いで水を噴きあげ、千年家を災難から守ったという。こんなことから里人たちは『無災の亀石』に間違いないと、語り続けたと伝えられている。
 また、天正9年(1581年)羽柴秀吉が姫路城を築いた時と慶長5年(1600年)池田輝政がこのお城を改修した時、皆河の千年家が無災の民家という縁起から同家の桷(たるき)を天守閣の用材に加えたそうだし、安志藩陣屋の造営にも故事にならって桷片を棟木に打ち付けたといわれている。

 この千年家は昭和45、6両年にわたって大がかりな修理工事が行われ、建築当初の姿に復元。平成12年には町当局により同家周辺が整備され「千年家公園」として、いこいの場になっている。「千年家公園」は年間を通して自由にはいれるが、「千年家」は土曜、日曜、祭日(年末、年始を除く)に公開されている。団体には平日でも公開されるが、予約制になっており事前に同町教青委員会事務局への連絡が必要。
      (2005年1月掲載:山崎文化協会事務局)

亀石をおまつりする小さなお社

(52)千種町『みやげのロ-ソク』

 昭和四十七年三月、兵庫県教育委員会から発行された西播奥地民俗資料緊急調査報告『千種』の中に、当時の千種町内の古老の人たちが語られた伝説や昔話などが掲載されている。この中から『みやげのローソク』の話を選んで取材した。
 真夏のうだるような暑い日。郷土の歴史に大変詳しい千種町元教育長の上山明さんが会議出席のため山崎町へ出て来られたのを機会に、山崎文化会館でお出会いして千種町内の昔話について、いろいろ話を聴いた。
 『みやげのローソク』の昔話は″佐治谷″の人たちが、お伊勢まいりをしたときの話だが、いま千種町には″佐治谷″というところはない。しかし、前記報告書『千種』の中に記載されている昔話には″佐治谷″の人たちのことが語られたものも多い。そこで「″佐治谷″というのは、どこのことだろう…」「なぜ″佐治谷″の人のことが、千種町の古老の人たちによって語り継がれてきたんだろう…」と、いうことが話題になった。このことについて、上山明さんは「はっきりしたことは分かりませんが、昔は千種町と因幡地域(鳥取県東南部)の人たちとの交流がいまより盛んだったようです。因幡には″佐治谷″(現在の鳥取市佐治町か…)というところがあるので、ここの人たちが千種町へ来訪されたとき話をされたことが、同町の人たちによって語り継がれてきたのではないでしょうか…」と話されていた。
 前記報告『千種』に掲載されている昔話と、ほぼ変わらぬ内容になったが、そのうえ上山さんからお聴きした話を参考に、いつもながら想像もまじえて『みやげのローソク』の昔話をつづってみた。

 おそらく江戸時代のことだったんだろうー。″佐治谷″の庄屋さんの呼びかけで、村の人たち大勢が連れだって、お伊勢まいりをした。道中、宿屋や食べもの屋で、しくじりがあったが、みんな元気で機嫌よく、お伊勢まいりをすませた。帰途につく前、みんなそろって商店街を歩きながら「家族へのみやげは何がいいだろう…」「甘いお菓子にしようかな…」など、ワイワイ・ガヤガヤにぎやかに話し合っていたところ、庄屋さんが小ぢんまりした店へ立ち寄り″ローソク″を買った。連れの人たちは″ローソク″を見たことがなかったので庄屋さんに「それは何んですか…」と聞いたところ「何にって、これはみやげだよ。里に帰って親類や近所へ配ばろうと思っとるんや…」との答え。「そんなら…」というので村人たちも店内にはいり「わしも買うで…」「わしにもくれえ…」と、いいながら″ローソク″を買った。
 やっとのことで村里へ戻った人たちは、それぞれの家庭で「これは、ありがたいお伊勢さんのおみやげや…」といって″ローソク″を取り出して家族に見せた。そのころの″ローソク″はアメ色をしていたので、みんな珍しいお菓子だと思い、おお喜び。一本ずつ分け合って食べた。しかし「これなんや、何んの味もしやへん…」「ありがたいお伊勢さんのおみやげやいうのに、ぜんぜんおいしくない」など不評。でも「ほかすのにはもったいない…」と我慢して食べたらしい。
 そのあと村人たちが庄屋さん宅を訪ね「お伊勢さんのおみやげ、家族そろって食べましたが、ぜんぜん美味くないと不評でした」「あれは何んという食べものですか…」などと尋ねた。庄屋さんは「なんや…。お前ら″ローソク″を食べたんかー。あれは食べるもんじゃない、火をともすもんや。ほんとにラチもないことをする」と答えて、あきれ顔。これを聞いた村人たちは「こりゃえらいことをしてしまった。火をつけるもんなら、はよう池にはいって腹の中の火を消さないかん…」と、あわてて次ぎ次ぎ池の中へドボン・ドボンと飛び込む大騒動を起こした。
 そこで庄屋さんは「こんな状態では村里の恥になる。何んとかせねばならん…」と、それ以来、集会を聞いて先進地の町の人たちの話を聞いたり、近在の景勝地や文化施設を見学することなど続けた。その結果「″佐治谷″のもんは、みんな利口(りこう)や…」と近在の人たちにほめられるほどになったという。

 ある辞典を見てみると″ローソク″は奈良時代に中国から、わが国にはいってきたようだが、一般に普及、多くの家庭で使いだしたのは江戸時代後期かららしい。
      (2005年9月掲載:)

(62)一宮町『延命水』と『行者堂』

木づくりの「行者堂」

 美しい自然に恵まれた宍粟市一宮町一帯は、豊かな大地から、おいしくて、きれいな『水』が湧きでているところが多いといわれている。
 平成11年4月(1999年)旧宍粟郡一宮町当局は、この湧き水のうち、とくに水質のよいところを「一宮名水」に選定した。名水に選ばれたのは、同町伊和の「延命水」、同町福知の「文殊の水」、同町公文の「千年水」、同町東河内の「岡の泉」、同町河原田の「阿舎利の水」、同町公文の「藤無山の水」、同町倉床の「ふれあいの水」の七湧水。
 どの名水場も地元の人たちによって整備され「水」を飲んだり、汲んだりするのに気持よく利用できるようになつており、どこの名水場へも訪れる人たちが跡をたたず、日曜や休日には水汲みを待つ人たちの行列が出来るところもあるとか。
 その名水場のうちの一つ。伊和の「延命水」の湧出場所と隣接地に建つ「行者堂」にかかわる昔からの言い伝えがあるとの話を聞き取材することにした。
 秋晴れの爽やかな日。宍粟市山崎町の中心部から車で出発。国道29号線を12キロほど北進し、かの有名な同市一宮町の伊和神社前に到着。伝説の地への案内をお願いしていた旧一宮町の5代目の文化協会長、大井直樹さんと出会って対談。このあと地元の歴史に詳しい同町伊和に在住の旧一宮町の3代目の文化協会長、中村長吉さん宅を訪問。取材の同行をお頼みしたところ心よく引き受けてくださった。
 さっそく取材先へ向かって出発。伊和地区の国道端に立つ「延命水」「行者堂」への案内表示板に従い、林道にはいって東進。しばらく走ると道端に「句と歌の道」と刻み込んだ自然石の大きな石碑があり、そこから約250メートルにわたって道の両側に高さ約1メートル、幅約80センチの短歌や俳句を刻んだ石碑120基が、ずらり並んでいた。その中には 「延命水白山茶化に湧きやまず」という句碑も見られた。「句と歌の道」を過ぎると昔からの言い伝えのある「延命水」と「行者堂」のある山すそに着いた。
 「延命水」の取水場は大きな自然石を積んで作られており取水口は二つ。一つには“行者の霊水”もう一つには“延命水”と書かれた札が下げられていた。そばに立つ案内板には「この水は渓川の水ではありません。霊山の水で名づけて延命水と申します。すでにあらたかな霊験も顕われております」と記載されていた。「行者堂」は古風な木造だった。
 中村さんと、大井さんから聞いた話と「宍粟市いちのみや名水MAP」を参考に想像もまじえて「延命水」と「行者堂」にかかわる昔からの言い伝えをつづってみた。

 いまから、およそ250年前の江戸時代、伊和の里(現在、一宮町)に若い男の賢者が住んでいた。賢者は仏道を究めるため奈良の大峰山の根本霊場へ行き長期にわたって修行。たびたび大峰山に入って修行の功を積んだ人に贈られる「大峰先達」の位までもらって帰郷した。賢者はその後も地元で修行を続けたいと、伊和地区の東方、樹林の中に三つの滝が落下、きれいな湧き水もでている山ろくを見つけ、そこに木づくりの小さな「行者堂」を建てた。賢者は滝に打たれて身を清めたあと「行者堂」に、こもって読経を続け、疲れると、きれいな湧き水を飲んで元気いっぱいの修行を続行した。この様子を知った近在の人たちが、つぎつぎ「行者堂」を訪ね、賢者の指導を受けながら修行を繰りかえし仏道を究めたとのこと。

 「行者堂」から約600メートル奥地にはいると昔、行者が身を清めた三つの「行者の滝」があるというので、そこへも案内してもらった。山の谷間に、そそり立つ広大な岩盤の中に落差20メートルを超える滝が並んで見えた。一つの滝は飛沫をあげながら勢いよく落水していたが、ほかの二つは落水がなく岩膚が濡れているだけだった。中村さんは「昔は三つの滝とも激しい落水があったそうだが、いまは一つだけが常時、落水。あとの二つは雨が降ったあとだけ水が落ちている」と話しておられた。
  (平成19年11月掲載:宍粟市山崎文化協会事務局)

「延命水」の取水口

(47)一宮町『西公文の権現さま』

川上神社

 一宮町公文で「権現さま」にかかわる伝説が語り継がれていると聞き取材した。
 さわやかな秋晴れの朝、山崎町を車で出発。国道を北進して一宮町曲里の信号機のある交差点を右折。県道を更に北へ進み、同町三方町にある歴史資料館を訪ねた。
 同資料館では、同町文化協会の大井直樹会長、同資料館の田路正幸学芸員、郷土史に詳しい同町公文在住の小椋徳文さんの三氏にお目にかかり、テーブルを囲んで「権現さま」についての、いろいろの話を聞かせていただいたあと、伝説ゆかりの地-同町公文の「川上神社」と、その近くの「おかま滝」に案内してもらった。
 同資料館から北へ、およそ3㌔行った公文のケヤキやヒノキの巨木が林立する森の中に「権現さま」をおまつりした「川上神社」があった。厳(おごそ)かな社殿。参道入口には「権現さま」のことなど神社の由緒を刻み込んだ立派な石碑が建っていた。また、神社にほど近い揖保川の源流に落差1㍍余の「おかま滝」という小さな滝があり、隣接の岩盤に「権現さま」が乗られた神馬の蹄(ひづめ)のあとと伝えられるおおきな窪みがあった。
 大井、田路、小椋の三氏から聞いた話と一宮町史を参考に想像をまじえて「権現さま」にまつわる伝説をつづってみた。

 昔、むかしのこと。同町三方地区で一番高い但馬境にそびえる志倉山(現在の藤無山・標高1139㍍)の頂上に「権現さま」がおられた。「権現さま」は天災・病気など諸悪を迫っばらって下さるというので近在の里人たちの信仰が厚く、おまいりする人たちが後を絶つことがなかった。
 いまから890余年前、平安時代、天永年間のころ、公文の村里のお年寄りの中から『「権現さま」が高い山の天辺(てっぺん)に一人ぼっちでおられるのは寂しいだろう…』『しょっちゆう「権現さま」に、おまいりしたいが、年をとると険しい山道を長時間かけて登らんと志倉山の頂上まで行けんのが苦労の種や…』など、との声が高くなった。そこで、里人たちが集会を開いて相談。『「権現さま」を村里へお迎えして懇(ねんご)ろにおまつりし、盛大な祭事をしよう』と決めた。
 さっそく村里代表の人たちが「権現さま」におまいりして『公文の村里へおいで下さい』と心を込めてお願いした。しかし「権現さま」からは何の返事もなかった。その後も代表の人たちが同じお願いを続けていたところ、ある日、「権現さま」から『但馬の若杉と波賀の道谷からも同じ願いを聞いている。三地区の里人たちで相談の上、迎えに来てくれ…』との、お告げがあった。
 数日後、三地区の里人たちが集まって相談会を開き、激論をたたかわせた結果、『吉日を選び、その日の一番鶏が鳴くのを合図に各地区を出発。志倉山の頂上へ一番早く登り着いた地区へ「権現さま」をお迎えすることにしよう…』とのことを決め、このことを「権現さま」に申しあげた。
 公文の村里では足の速い元気いっぱいの若者数人を選んで吉日を待った。いよいよ実行の吉日がやってきた。若者たちは志倉山の麓の森の中に勢ぞろい。一番鶏の鳴き声を聞くと同時に山頂を目指して出発。汗だくだくになりながらも小走りで登山。やっとのことで頂上にたどり着いた。若杉、道谷二地区の人より早く一番乗りだった。息せき切りながら、みんなで声をそろえて『「権現さま」お迎えにまいりました』と祈願した。すると「権現さま」は『よし…』と答えて神馬にお乗りになり、空を飛ぶような、すごい勢いで公文の里へお移り下さったという。その時の神馬の蹄(ひづめ)のあとが揖保川源流に落ちる「おかま滝」に隣接する岩盤にある窪みだと言い伝えられているとのこと。

 川上神社では毎年4月25日に春祭り、9月10日に秋祭りが、にざやかに催されているそうだ。
          (2004年11月掲載)

神馬の蹄の跡