(31)下牧谷 『観音山の片目の魚』

 山崎町下牧谷に『観音山の片目の魚』の伝説があると聞いた。
さっそく山崎郷土研究会の大谷司郎会報部長を訪ね伝説地への取材同行をお願いした。
 冬型の気圧配置が強まり、いつになく激しい雪が降りしきる朝、伝説の地に向かった。
同町中心部から県道山崎-内海線を通り、伊水小学校近くから左折して下牧谷地区へ。
途中、地元の歴史に詳しい藤田始男さん宅に立ち寄り、
そこで大谷部長と藤田さんから観音山にかかわる、いろいろの話を聞いた。
 このあと藤田さんの案内で観音山へ登った。同地区公民館の横手から林道にはいり、
その終点の隣接地に近在の人たちが〝観音堂″と言っている「石水山・観世音菩薩・金蔵寺」が建ち、
お堂を取り囲むように伝説の「片目の魚」が生息していると語り継がれている池があった。
広さは約80平方㍍、水深は約10㌢。
きれいな水の中を地元で〝アブラジャコ″=カワムツ=といわれる
体長3-10㌢くらいの魚がたくさん泳いでいた。
 池のすぐ横。山の岩間からは透き通った清水が流れ落ち、竹の樋を取り付けた水飲み場が作られ、
お堂の前には昭和62年、公認検査機関、社団法人、
姫路市医師会による水質検査結果を刻み込んだ大きな石板が建てられていた。
地元では「観音さまの名水」と言われており、遠方から水を汲みに来る人たちもあるとのこと。
 大谷部長と藤田さんから聞いた話と「蔦澤の伝説と民話集」を
参考に想像もまじえて、この伝説をつづってみた。

 いまから422年前の天正8年(1580年)同町神野、
蔦沢両地区にまたがる長水山頂(高さ584㍍)に築城されていた長水城(当時、宇野政頼城主)が
織田信長から中国地方平定を命じられた羽柴秀吉軍の攻撃を受け落城した。
このとき命がけで城を脱出した士気旺盛な武士たちが、
お城から約1.5㌔離れた同町下牧谷地区の観音山の麓にある大きな寺院に立て寵(こも)り、
羽柴軍と死闘を繰り広げた。しかし、多勢に無勢とあって敗戦。火矢を打ち込まれた寺院は全焼。
この火が山林に燃え広がり、山の中腹にあった奥の院・観音堂も焼けてしまった。
お堂の側(そば)には小さな池があり、多くの魚が生息していたが、猛烈な火の手のため、
池の水が熱湯となり、大半の魚は死んでしまった。
ところが、たまたま山の谷間から池へ流れ込む冷たい水のほとりにいた魚は熱湯の被害から免(まぬが)れ、
片目は失なったが、なんとか生き残った。それ以来、この池で育った魚は、すべて片目だったと伝えられている。
しかし、いまの観音堂の池の魚は、長い間かかって片目が元の両目に回復したのか?、
ほかの魚が生息するようになったのか?、のぞき見る限りでは五体満足な魚ばかりのようだった。

 また、地元の古老の話によると観音山の流水は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の大悲の智水といわれ、
この水をいただくと健康長寿に恵まれると語り継がれてきたという。

 ここの観音堂のお祭りは例年8月9・10両日。開扉祭は21年に1度、
近年では平成11年4月に催され拝観の人たちでにぎわったそうだ。
     (2002年3月掲載)

観世音菩薩のお堂
伝説「片目の魚」の池