(40)一宮町『御形(みかた)神社』

御形神社

 夏空が広がる暑い日。一宮町森添の御形神社にかかわる伝説の取材に出かけた。
 まず最初、同町三方町にある町立歴史資料館の田路正幸学芸員を訪ね、関係資料をいただいたあと同行をお願いして御形神社へ。
 進藤千秋宮司にお目にかかり、居宅の応接室で進藤宮司と田路学芸員から、いろいろの話を聴き、広い境内と、その近くにある伝説の地へも案内してもらった。お二人から聴いた話と関係資料を参考に、想像もまじえて同神社にかかわる伝説をつづってみた。

 大むかしのこと。同神社の祭神、葦原志許男神(あしはらのしこおのかみ)=大国主神(おおくにぬしのかみ)=と渡来の天日槍神(あめのひぼこのかみ)との国占めの争いが揖保川沿いをはじめ各地で繰り広げられた。長期にわたる激しい争いだったが、
なかなか決着がつかなかった。そこで、お二人の神様が話し合いをされ「御古里の北部にある志爾嵩(しにだけ)(現在の高峰山・標高845㍍)の頂上から黒葛(つづら)を三條(みかた)、足にからめて投げ、その黒葛が落ちたところを、それぞれ占有統治しよう…」との約束をされた。
 ある爽やかに晴れた日。お二人の神様が高峰山の頂上に立たれ、多くの従者や里人たちが見守る中、黒葛を3條ずつ足にからめて空高く投げ合われた。
 天日槍神のものは、すべて但馬地域に。葦原志許男神のものは1條目が但馬の気多(けた)郡(城崎郡)、2條目が夜夫(やぶ)郡(養父郡)、3條目が御方里(みかたのさと)へ落ちた。その結果、天日槍神は但馬地域。葦原志許男神は御方里はじめ播磨の国を占有されることになったと言い伝えられている。
 お二人の神様が投げられた黒葛は、山に生えているツヅラフジの直径数㍉の細い蔓(つる)を束ねて輪にした軽いものだったようだ。
 また、三條の「條」は辞典に「細長いものを数える言葉」と記してあった。
 葦原志許男神は、そのあと占有地域の土地開発、農業振興などに努力され、なんとか幸福で平和な国造りが出来たので、出雲の国(現在、島根県)へ、お帰りになることになった。そこで、この地、高峰山を去られるに当たって愛用されていた杖を「形見」として山頂に刺し植え、行在の標(しるし)とされた。この「形見」が「御形」と変化して同神社が「御形神社」と名づけられたと語り継がれている。
 その後、神様が杖を刺し植えられた高峰山の頂上に、里の人たちが力を合わせて社殿を建立。葦原志許男神をおまつりしたのが同神社の創祀と伝えられている。
 ときは移り、奈良時代の宝亀3年(772年)のある夜。数人の里の人たちが「山すその森の中に一夜にしてスギの大木3本が生えた」という同じ霊夢をみた。
 この夢のことが、たちまち里中に広まり、みんなが連れだって森へ行ってみたところ、いままで見たこともないスギの大木3本が向い合うような形で、
 そびえ立っていた。おどろいた里人たちは、さっそく集会を開いて相談。「高峰山頂の祭神が、きっと、この森への遷座を望まれているのだろう…」ということになり、里人たちが協力。一夜にして生えたスギの大木に近い山すそ一帯を整地して立派な社殿を建て、高峰山頂から神様をお迎えして、おまつりしたのが現在の御形神社の起源と伝えられている。

 昭和42年、国の重要文化財に指定された極彩色の本殿の直ぐ裏側には伝説のスギだという巨木1本がそびえており、「夜の間(よのま)杉」と呼ばれている。
 また、高峰山からご祭神が現在地へ遷座なさるとき、山から同神社近くの坂下の小さな丘にとび降りられたが、たまたま、そこにユズの木があり、そのトゲで目を傷つけられた。このため、この里ではユズが実らなくなったとも言い伝えられている。いま、ご降臨の地には大きな石碑が建っている。

      (2003年9月掲載:山崎文化協会事務局)