(52)千種町『みやげのロ-ソク』

 昭和四十七年三月、兵庫県教育委員会から発行された西播奥地民俗資料緊急調査報告『千種』の中に、当時の千種町内の古老の人たちが語られた伝説や昔話などが掲載されている。この中から『みやげのローソク』の話を選んで取材した。
 真夏のうだるような暑い日。郷土の歴史に大変詳しい千種町元教育長の上山明さんが会議出席のため山崎町へ出て来られたのを機会に、山崎文化会館でお出会いして千種町内の昔話について、いろいろ話を聴いた。
 『みやげのローソク』の昔話は″佐治谷″の人たちが、お伊勢まいりをしたときの話だが、いま千種町には″佐治谷″というところはない。しかし、前記報告書『千種』の中に記載されている昔話には″佐治谷″の人たちのことが語られたものも多い。そこで「″佐治谷″というのは、どこのことだろう…」「なぜ″佐治谷″の人のことが、千種町の古老の人たちによって語り継がれてきたんだろう…」と、いうことが話題になった。このことについて、上山明さんは「はっきりしたことは分かりませんが、昔は千種町と因幡地域(鳥取県東南部)の人たちとの交流がいまより盛んだったようです。因幡には″佐治谷″(現在の鳥取市佐治町か…)というところがあるので、ここの人たちが千種町へ来訪されたとき話をされたことが、同町の人たちによって語り継がれてきたのではないでしょうか…」と話されていた。
 前記報告『千種』に掲載されている昔話と、ほぼ変わらぬ内容になったが、そのうえ上山さんからお聴きした話を参考に、いつもながら想像もまじえて『みやげのローソク』の昔話をつづってみた。

 おそらく江戸時代のことだったんだろうー。″佐治谷″の庄屋さんの呼びかけで、村の人たち大勢が連れだって、お伊勢まいりをした。道中、宿屋や食べもの屋で、しくじりがあったが、みんな元気で機嫌よく、お伊勢まいりをすませた。帰途につく前、みんなそろって商店街を歩きながら「家族へのみやげは何がいいだろう…」「甘いお菓子にしようかな…」など、ワイワイ・ガヤガヤにぎやかに話し合っていたところ、庄屋さんが小ぢんまりした店へ立ち寄り″ローソク″を買った。連れの人たちは″ローソク″を見たことがなかったので庄屋さんに「それは何んですか…」と聞いたところ「何にって、これはみやげだよ。里に帰って親類や近所へ配ばろうと思っとるんや…」との答え。「そんなら…」というので村人たちも店内にはいり「わしも買うで…」「わしにもくれえ…」と、いいながら″ローソク″を買った。
 やっとのことで村里へ戻った人たちは、それぞれの家庭で「これは、ありがたいお伊勢さんのおみやげや…」といって″ローソク″を取り出して家族に見せた。そのころの″ローソク″はアメ色をしていたので、みんな珍しいお菓子だと思い、おお喜び。一本ずつ分け合って食べた。しかし「これなんや、何んの味もしやへん…」「ありがたいお伊勢さんのおみやげやいうのに、ぜんぜんおいしくない」など不評。でも「ほかすのにはもったいない…」と我慢して食べたらしい。
 そのあと村人たちが庄屋さん宅を訪ね「お伊勢さんのおみやげ、家族そろって食べましたが、ぜんぜん美味くないと不評でした」「あれは何んという食べものですか…」などと尋ねた。庄屋さんは「なんや…。お前ら″ローソク″を食べたんかー。あれは食べるもんじゃない、火をともすもんや。ほんとにラチもないことをする」と答えて、あきれ顔。これを聞いた村人たちは「こりゃえらいことをしてしまった。火をつけるもんなら、はよう池にはいって腹の中の火を消さないかん…」と、あわてて次ぎ次ぎ池の中へドボン・ドボンと飛び込む大騒動を起こした。
 そこで庄屋さんは「こんな状態では村里の恥になる。何んとかせねばならん…」と、それ以来、集会を聞いて先進地の町の人たちの話を聞いたり、近在の景勝地や文化施設を見学することなど続けた。その結果「″佐治谷″のもんは、みんな利口(りこう)や…」と近在の人たちにほめられるほどになったという。

 ある辞典を見てみると″ローソク″は奈良時代に中国から、わが国にはいってきたようだが、一般に普及、多くの家庭で使いだしたのは江戸時代後期かららしい。
      (2005年9月掲載:)