(41)引原八幡神社『道貞物語(どうていものがたり)』

 平成3年、当時の波賀町農業協同組合が発行した波賀八幡神社の小林盛三宮司の著による「ふるさとの伝説」の本を読んだ。その中の引原八幡神社の項に「道貞物語(どうていものがたり)」と題して小兵(こひょう)の道貞が大柄の力士を投げとばすという、ちょっぴり胸のすくような奉納相撲の伝説が記載されていた。楽しそうな伝説なので、さっそく取材することにした。
 さわやかな秋晴れの日、波賀町教育委員会の岡田博行生涯学習課長を訪ね、取材の協力をお願いして引原八幡神社へ向った。音水湖沿いの国道を北進、まもなく同町引原字高山に到着。国道から急坂を登るとスギ林の中に同神社があった。
 神社参道で、この地域の昔のことに詳しい地元の田村角太郎さん(85)にお出会いし、神社内を案内していただいた。威厳のある本殿はじめ随神門。近在では珍しいといわれる神仏混合時代の名残をとどめる阿弥陀堂などが建っていた。この神社のご祭神は古くから旧引原地区中心部の広大な森の中におまつりしてあったが昭和三十年、引原ダム建設工事のため、この地に遷座なさったとのこと。近くの田村さん宅に立ち寄り道貞のことや昔のお祭り行事のことなど聴いた。
 このあと同町安賀の特別養護老人ホーム「かえで園」を訪ね、たまたま同園に来ておられた「ふるさとの伝説」の著者、小林宮司にお目にかかり道貞物語について、いろいろの話を聴き「ふるさとの伝説」の記載文の一部を転載するお許しを得た。 岡田課長、田村さん、小林宮司さんから聴いた話と「ふるさとの伝説」。さらに同町文化協会発行の「ともしび」第73号に掲載されていた引原八幡神社の宮総代、加納宏教さんが書かれた「引原八幡神社について」の記事を参考に、想像もまじえて「道貞物語」の伝説をつづってみた。

 むかし、昔、引原八幡神社の社守として小柄だが力持ちの道貞という若者がいた。道貞は神社の建物を管理するだけではなく、お祭りなどの世話も骨身おしまず努め、地域の人たちに親しまれていた。ある年の秋祭りの時のこと。例年通り弓やお旅の行事があったあと、そのころ大変な人気のあった奉納相撲が始まった。出場するのは地元はもちろんのこと、遠く因幡、但馬などから山越えでやって来た若い力士ら約80人。観客はわんさとつめかけ、土俵の回りを埋めつくしていた。この日は、因幡からやって来た大柄で腕っぷしの強い力士が大活躍。地元の力士らを次ぎ次ぎ投げとばし、最後に土俵の中央に仁王立ち「もう、わしの相手になるもんはおらんのか…」と、大声で何回もどなった。しかし、だれも土俵にあがるものはなかった。
 この様子を本殿から見ていた社守の道貞が「ここにおる…」と声高に叫び、素早く境内に建っていた幟竿(のぼりさお)の孟宗竹を引き裂き、これを回しにして土俵にあがった。小柄な道貞を見た因幡の力士は″ニヤリ″と、ほくそ笑んだ。いよいよ勝負。双方見合って立ち上がった。道貞は思い切り低く出て両手で相手の前みつをつかみ、因幡の力士は道貞の背中に手を伸ばして回しをわしずかみした。「危ない、つられる」と思った道貞は、のけぞって因幡の力士を土俵中央にそり返して投げ倒した。「ワァ…」「ワァ…」と地元びいきの観客がどよめき、よろこびの声が、しばらくやまなかった。神助けというか、奇蹟というか、これは道貞の闘魂の賜物(たまもの)。
 勝名乗りを受け、再び本殿にもどった道貞はフーフー吐く息は荒く、顔は真っ赤で鬼の面そっくり。これを見た観客の多くが「アーお宮に鬼が出た」と、びっくり仰天して逃げ帰ったという。

 田村さんは「親父から道貞は160㌔ほどある昔の桶風呂を湯のはいったまま背負ったとか、それより重いケヤキの原木をかついだとか聞きました。大柄の力士に勝ったのは道貞の怪力だったと思う。」と話されていた。
    (2003年11月掲載:山崎文化協会事務局)

(31)下牧谷 『観音山の片目の魚』

 山崎町下牧谷に『観音山の片目の魚』の伝説があると聞いた。
さっそく山崎郷土研究会の大谷司郎会報部長を訪ね伝説地への取材同行をお願いした。
 冬型の気圧配置が強まり、いつになく激しい雪が降りしきる朝、伝説の地に向かった。
同町中心部から県道山崎-内海線を通り、伊水小学校近くから左折して下牧谷地区へ。
途中、地元の歴史に詳しい藤田始男さん宅に立ち寄り、
そこで大谷部長と藤田さんから観音山にかかわる、いろいろの話を聞いた。
 このあと藤田さんの案内で観音山へ登った。同地区公民館の横手から林道にはいり、
その終点の隣接地に近在の人たちが〝観音堂″と言っている「石水山・観世音菩薩・金蔵寺」が建ち、
お堂を取り囲むように伝説の「片目の魚」が生息していると語り継がれている池があった。
広さは約80平方㍍、水深は約10㌢。
きれいな水の中を地元で〝アブラジャコ″=カワムツ=といわれる
体長3-10㌢くらいの魚がたくさん泳いでいた。
 池のすぐ横。山の岩間からは透き通った清水が流れ落ち、竹の樋を取り付けた水飲み場が作られ、
お堂の前には昭和62年、公認検査機関、社団法人、
姫路市医師会による水質検査結果を刻み込んだ大きな石板が建てられていた。
地元では「観音さまの名水」と言われており、遠方から水を汲みに来る人たちもあるとのこと。
 大谷部長と藤田さんから聞いた話と「蔦澤の伝説と民話集」を
参考に想像もまじえて、この伝説をつづってみた。

 いまから422年前の天正8年(1580年)同町神野、
蔦沢両地区にまたがる長水山頂(高さ584㍍)に築城されていた長水城(当時、宇野政頼城主)が
織田信長から中国地方平定を命じられた羽柴秀吉軍の攻撃を受け落城した。
このとき命がけで城を脱出した士気旺盛な武士たちが、
お城から約1.5㌔離れた同町下牧谷地区の観音山の麓にある大きな寺院に立て寵(こも)り、
羽柴軍と死闘を繰り広げた。しかし、多勢に無勢とあって敗戦。火矢を打ち込まれた寺院は全焼。
この火が山林に燃え広がり、山の中腹にあった奥の院・観音堂も焼けてしまった。
お堂の側(そば)には小さな池があり、多くの魚が生息していたが、猛烈な火の手のため、
池の水が熱湯となり、大半の魚は死んでしまった。
ところが、たまたま山の谷間から池へ流れ込む冷たい水のほとりにいた魚は熱湯の被害から免(まぬが)れ、
片目は失なったが、なんとか生き残った。それ以来、この池で育った魚は、すべて片目だったと伝えられている。
しかし、いまの観音堂の池の魚は、長い間かかって片目が元の両目に回復したのか?、
ほかの魚が生息するようになったのか?、のぞき見る限りでは五体満足な魚ばかりのようだった。

 また、地元の古老の話によると観音山の流水は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の大悲の智水といわれ、
この水をいただくと健康長寿に恵まれると語り継がれてきたという。

 ここの観音堂のお祭りは例年8月9・10両日。開扉祭は21年に1度、
近年では平成11年4月に催され拝観の人たちでにぎわったそうだ。
     (2002年3月掲載)

観世音菩薩のお堂
伝説「片目の魚」の池

(40)一宮町『御形(みかた)神社』

御形神社

 夏空が広がる暑い日。一宮町森添の御形神社にかかわる伝説の取材に出かけた。
 まず最初、同町三方町にある町立歴史資料館の田路正幸学芸員を訪ね、関係資料をいただいたあと同行をお願いして御形神社へ。
 進藤千秋宮司にお目にかかり、居宅の応接室で進藤宮司と田路学芸員から、いろいろの話を聴き、広い境内と、その近くにある伝説の地へも案内してもらった。お二人から聴いた話と関係資料を参考に、想像もまじえて同神社にかかわる伝説をつづってみた。

 大むかしのこと。同神社の祭神、葦原志許男神(あしはらのしこおのかみ)=大国主神(おおくにぬしのかみ)=と渡来の天日槍神(あめのひぼこのかみ)との国占めの争いが揖保川沿いをはじめ各地で繰り広げられた。長期にわたる激しい争いだったが、
なかなか決着がつかなかった。そこで、お二人の神様が話し合いをされ「御古里の北部にある志爾嵩(しにだけ)(現在の高峰山・標高845㍍)の頂上から黒葛(つづら)を三條(みかた)、足にからめて投げ、その黒葛が落ちたところを、それぞれ占有統治しよう…」との約束をされた。
 ある爽やかに晴れた日。お二人の神様が高峰山の頂上に立たれ、多くの従者や里人たちが見守る中、黒葛を3條ずつ足にからめて空高く投げ合われた。
 天日槍神のものは、すべて但馬地域に。葦原志許男神のものは1條目が但馬の気多(けた)郡(城崎郡)、2條目が夜夫(やぶ)郡(養父郡)、3條目が御方里(みかたのさと)へ落ちた。その結果、天日槍神は但馬地域。葦原志許男神は御方里はじめ播磨の国を占有されることになったと言い伝えられている。
 お二人の神様が投げられた黒葛は、山に生えているツヅラフジの直径数㍉の細い蔓(つる)を束ねて輪にした軽いものだったようだ。
 また、三條の「條」は辞典に「細長いものを数える言葉」と記してあった。
 葦原志許男神は、そのあと占有地域の土地開発、農業振興などに努力され、なんとか幸福で平和な国造りが出来たので、出雲の国(現在、島根県)へ、お帰りになることになった。そこで、この地、高峰山を去られるに当たって愛用されていた杖を「形見」として山頂に刺し植え、行在の標(しるし)とされた。この「形見」が「御形」と変化して同神社が「御形神社」と名づけられたと語り継がれている。
 その後、神様が杖を刺し植えられた高峰山の頂上に、里の人たちが力を合わせて社殿を建立。葦原志許男神をおまつりしたのが同神社の創祀と伝えられている。
 ときは移り、奈良時代の宝亀3年(772年)のある夜。数人の里の人たちが「山すその森の中に一夜にしてスギの大木3本が生えた」という同じ霊夢をみた。
 この夢のことが、たちまち里中に広まり、みんなが連れだって森へ行ってみたところ、いままで見たこともないスギの大木3本が向い合うような形で、
 そびえ立っていた。おどろいた里人たちは、さっそく集会を開いて相談。「高峰山頂の祭神が、きっと、この森への遷座を望まれているのだろう…」ということになり、里人たちが協力。一夜にして生えたスギの大木に近い山すそ一帯を整地して立派な社殿を建て、高峰山頂から神様をお迎えして、おまつりしたのが現在の御形神社の起源と伝えられている。

 昭和42年、国の重要文化財に指定された極彩色の本殿の直ぐ裏側には伝説のスギだという巨木1本がそびえており、「夜の間(よのま)杉」と呼ばれている。
 また、高峰山からご祭神が現在地へ遷座なさるとき、山から同神社近くの坂下の小さな丘にとび降りられたが、たまたま、そこにユズの木があり、そのトゲで目を傷つけられた。このため、この里ではユズが実らなくなったとも言い伝えられている。いま、ご降臨の地には大きな石碑が建っている。

      (2003年9月掲載:山崎文化協会事務局)

(30)一宮町 御形神社『百人一首』の絵馬など

 新春にふさわしい題材がないものか…と考えていたところ一宮町森添の御形神社の絵馬堂に、お正月の室内遊び、そして日本文学の古典を学ぶうえで学習資料としても多くの人たちに親しまれている「百人一首」の古い絵馬が飾り付けられているのを思い出した。伝説というより史実といえるものだが取材した。
 冬将軍の到来を告げる底冷えの朝、同町文化協会の大井直樹会長に同行をお願いして御形神社を訪ねた。進藤千秋宮司さんにお目にかかり、関係資料をもらったり、話を聞かせていただいたりしたあと、巨木の林立する境内にある〝舞台″と呼ばれる絵馬堂へ。木造約50平方㍍の堂内には「百人一首」の絵馬が、ずらり掲げられていた。絵馬の総数は17面。一面の大きさは横184㌢、縦58㌢。一つの面に5~6人ずつ合計百人の和歌と作者の姿絵が描かれていた。古いものとあって和歌の文字は、はっきり見えず読みづらかったが姿絵の方は美しくみごたえがあった。
 この絵馬が奉納されたのは、いまから156年前の弘化3年(1846年)。絵馬作りにかかわった地元、福野村の画工、石轉(いしころび)勝次さんと伊保(現在の高砂市伊保町)の浦人、加藤清風さんの奉納趣意はじめ願主名などを書いた額二面も掲げられていた。それによると「このお宮には古くから百人一首の歌が奉納されていたが、天保5年(1834年)の火災で焼失。このたび氏子中が願主となり再現奉納した。」=要旨=などと記されている。百人の和歌と作者の姿絵全部が揃っている「百人一首」の絵馬は全国でも極めて珍しく貴重なもの。
 「小倉百人一首」は、いまから約800年前、藤原定家が天智天皇から順徳天皇まで約560年の間に詠まれた和歌百首を各人一首ずつ選んで色紙形(しきしがた)とし、それに似絵(にせえ)を添えて障子に貼ったことからこの名があるといわれる。当初は宮廷の人たちの遊びにとり入れられたが、江戸時代からお正月の室内遊びの「かるた」として一般に普及したそうだ。
 同神社へ初詣で。そのあと国の重要文化財に指定されている室町時代末期の建築様式や技法を伝える極彩色の華やかな本殿や「百人一首」の絵馬を見学すれば、とくに歴史、文学、芸術に関心を持つ人たちにとっては新しい年を迎えるに当たって、いい思い出になりそう。 同神社にまつわる伝説は、いくつもあるが進藤宮司と大井会長から聞いた話と同町歴史資料館からいただいた資料を参考に想像もまじえて、その一部をつづってみた。

 同神社の祭神、葦原志許男(あしはらしこお)神が同社の東南約2㌔離れた高峰山に鎮座されていた奈良時代の宝亀3年(772年)のこと。村里の人たちが一夜のうちに三本の杉の巨木が里近くの森に突然生えるという不思議な霊夢をみた。みんなが集まって話し合った結果「高峰山におられる祭神が、この里の森へ遷座を所望されておられるのだろう」と、いうことになり、さっそく森の中に社殿を造営しておまつりした。これが同神社の起源だとも語り継がれている。
 また、祭神が高峰山から同神社の坂の下南の小さな丘に飛び降りられたところ、たまたま、そこに生えていた柚子(ゆず)の木で目を傷められた。そのため、この里には柚子が実らなくなってしまったとも伝えられている。
      (2002年1月掲載)

御形神社本殿
「百人一首」の絵馬の一部

(39)鶴木『こんぴらさん』

鶴木の金毘羅神社

 山崎町鶴木に近在の人たちから″こんぴらさん″と呼ばれて崇め親しまれている金刀比羅神社がある。この神社には「剱(つるぎ)」「白鶴(はくつる)」「奇瑞(きずい)」にかかわる言い伝えがあり、同町城下小学校の百周年記念誌「飛翔」に、その内容が載っていると聞いた。
 さっそく町立図書館へ行き同小学校の記念誌を借りて、ひもといた。同誌は平成4年10月に発行されたA4版、175ページの立派なもの。この中の「ふるさとの民話」の項に″鶴木の金刀比羅さんのおはなし″と題して伝説のことが記載されていた。そのあと、記念誌の作成当時、百周年記念事業推進委員会の記念誌部長をされていた同町鶴木、鶴崎和美さんを訪ね、言い伝えについての話を聞かせていただいたうえ、記念誌を参考に想像もまじえて同神社にまつわる伝説をつづってみた。

 むかし、昔のこと。現在の同町鶴木に住んでいた、ある里人が畑づくりのため荒地を開墾。湧水を求めて大樹の近くに深い穴を掘っていたところ土中から「剱」を見つけ出した。両刃の直刀で並々ならぬ優美なものだった。この「剱」を見た里人たちは『こんな素晴らしい「剱」は尋常なものではない。きっと神様がお持ちになっていたものだろう』と、声をそろえて語り合い、大樹の根元にたてて、みんなで大切に見守った。そのころから同地区に居住する人たちが増え″剱村(つるぎむら)″というようになった。
 その後のこと。「剱」をたてていた大樹の天辺(てっぺん)に白鶴が飛来。十日あまりも止(とど)まっていた。ある日、突然、蒼顔、白髪の老翁が現われ、里人たちに『われは「剱」の霊なり、ただいまより社を建立して神をまつるべし』と告げ、白鶴に姿を変えてたち去られた。里人たちは相談を重ねたうえ、力を合わせて、お社を建て鶴木大明神と名づけておまつり。″剱村″を″鶴木″に改めたという。 江戸時代の安永4年(1775年)夏。同町内の神戸屋又太郎さんの息子が庖瘡(ほうそう)を患(わずら)った。又太郎さんは薬を飲ませるなど出来る限りの手当を施したが難病だけに、なかなか治らず、日を迫うて哀れな姿になるばかりだった。この上は神様に、ご加護をお願いするしかないと在宅のまま毎日かかさず讃岐の金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)さまに『息子の病を治してやって下さい』と心を込めての祈願を続けた。すると病状が日ごとに快方に向い全快した。又太郎さんは息子が助かったのは大権現さまのお陰だと、讃岐へお礼まいりをすることにし、旅支度をしていたところ、ある夜の夢路に神様がお出になり『遠路はるばる海山越えて参詣するに及ばず、その地の鶴木大明神におまいりすべし』とのお告げがあった。
 又太郎さんは、その翌日、夜の明けるのを待って鶴木大明神におまいり。心を込めてお礼を申し上げた。ひと息いれて帰ろうとした時、知り合いの山崎藩士の西川覚馬さんと、ぱったり出会った。しばらく二人で立ち話。又太郎さんが息子の疱瘡(ほうそう)が全快した経過や昨夜の夢路での神様のお告げの話しをしたところ覚馬さんも『疱瘡にかかり、あまり治らないので讃岐の金毘羅大権現さまに祈願したら全快した。お礼まいりをするため準備をしていた昨日の夜、いま貴方から聞いた夢路の話と全く同じ夢を見たので、このお社におまいりに来た』とのことだった。両人は思いもかけぬ「奇瑞」=めでたいことの不思議な兆(きざ)し=にびっくりすると同時に大感激。あちこちいたんでいるお社を建てなおすことを約束。里人や藩士らに協力をよびかけ、地域ぐるみで新しい神殿を建立。金毘羅大権現さまのご神体を納めて鎮座していただいた。そのころから同神社へおまいりした人たちの神徳奇瑞が続き、地元はもちろんのこと遠方から参詣する人たちも多かったと言い伝えられている。
      (2003年7月掲載:山崎文化協会事務局)

(29)千種町西河内『鍋ヶ森(なべがもり)』

 さわやかな秋晴れの日。千種町西河内で昔から語り継がれている「鍋ヶ森」の伝説を取材するため同町役場を訪ねた。ふるさと振興課の小原壽課長にお目にかかり、鍋ケ森についての話を聞いたあと現地へ案内していただいた。
 最初は西河内の集落にある鍋ヶ森神社へ。町指定天然記念物クマノスギの巨木が林立する小じんまりした鎮守の森の中に荘厳な社殿が建っていた。拝殿には里人たちが勢ぞろいで〝雨乞い踊り″をする姿を描いた絵馬が飾り付けられていた。次に、ちくさ高原スキー場に、ほど近い県道ばたにある高さ2㍍余り「元鍋ケ森神社鎮座地」と刻み込まれた石碑を見せてもらった。大正6年、同地区集落の中に還座されるまでは、この地に立派なお社があり、雨乞いの神様として信仰を集めていたという。
 このあと林道を通りぬけ終点から狭い山道を登って、同神社の奥の院へ着いた。うっ蒼とした樹林の岩場に小さなお社が建っていた。すぐ近くを流れる谷川の河床には小石や渦流による侵蝕作用で出来るといわれる鍋のような形をした穴=「甌穴(おうけつ)」=があった。いい伝えでは、その数は大小12個ということだが確認はできなかった。この鍋のような穴が「鍋ヶ森」の呼び名とかかわりがあるのではなかろうか…。
 小原課長から聞いた話と、同町の上山明教育長にいただいた資料。兵庫県教委が昭和47年に発行した西播奥地民俗資料緊急調査報告「千種」を参考に、想像もまじえ、諸説のある「鍋ヶ森」の伝説のうちの一つをつづってみた。

 むかし、昔。いまからいうと九百数十年も前のこと。千草の荘、西河内の里(千種町西河内)に佐藤盛唯という人が住んでいた。ある日の夜、夢路に白髪で長いヒゲを伸ばした老翁が現われ『わしは、この奥の鍋ヶ森に住む大蛇じゃ。恥ずかしいことだが身を隠すことなく昇天した。すまんことだが亡骸(なきがら)を葬ってくれ。そうしてくれたら、この世が続く限り晴雨自在、五穀豊穣うたがいなし』 との、ご託宣があった。
 盛唯は夜の明けるのを待って村の長(おさ)を訪ね、夢路のご託宣を告げた。村の長は、さっそく里人たちを集めて、ご託宣を伝えた上、相談。鍋ヶ森へ行き大蛇の亡骸を葬ることを決めた。あくる日、里人たちは険しい山を踏み分けて、やっとのことで鍋ヶ森へ。手分けして大蛇の亡骸を捜していたところ谷川に出来た甌穴の直ぐ近くの森の中に横たわっている亡骸を見つけた。しばらく休んだあと、みんなが力を合わせて、大きくて深い穴を掘り、手厚く亡骸を葬り、小さなお社を建てた。
 それ以来、このお社にぬかづき干抜のとき、雨乞いをすれば、たちまち雨が降り。長雨が続いたとき、晴天を祈れば、たちまち雲が割れ、空が晴れわたったという。この、あらたかな霊験は里人たちを大いに喜ばせたと伝えられている。

 地元の人の話によると、雨乞いのためには「鍋ヶ森さんが踊りが好き」というので、里人たちが社前で踊りを奉納。そのあと神官を中心に雨乞いをしたそうだ。いまから五十数年前までは、近在はもとより、播州、但馬の各地はじめ岡山、鳥取両県内からも雨乞いのため鍋ヶ森のお社に、おまいりする人たちが多かった。他所の人たちは社前で神官に雨乞い祈願をしてもらったあと、お灯明の火を火ナワに移して持ち帰り、これを火種にして灯明をあげ、地域の人たちが、そろって雨乞い祈願をするのが例だったとのこと。
          (2991年11月掲載)

「鍋ヶ森」一帯
(前半が「鍋ヶ森」のお話)

(46)千本屋『雨祈神社(あまごいじんじゃ)』

雨祈神社

 ある日、山崎町教育委員会社会教育課で文化活動についての話し合いをしているうち、短時間だったが伝説と民謡のことが話題になった。その時「城下地区千本屋の雨祈神社へお参りすると、
旱天の慈雨をもたらして下さるだけでなく、恐ろしい毒を持つマムシ除けの砂を授かることができる」「雨祈神社の歴史など記載した小冊子が町の図書館にある」との話を聞いた。
 さっそく図書館へ行き「雨祈神社社史」と題する本を読み、古い歴史を持つ神社であることを知った。
 後日、同町中心部、中鹿沢の県道交差点から約1.4㌔南東の同町千本屋庄堺の同神社へ。古木の林立する神神(こうごう)しい森の中に威厳に満ちた社殿があった。驚いたことに拝殿正面の軒下にへビを形どった長さ6.5㍍ほど、胴まわり約60㌢もある、でっかいシメ縄が飾り付けられていた。このシメ縄飾りは後記する白へビ伝説に因(ちな)んだもので、十二支の巳年に氏子ら数十人が同神社に集まり、モチ米の稲ワラ600束ほどを使い一日がかりで作りあげるとのこと。
 また、拝殿横には室町時代、赤松家の家臣・岡城城主・宍粟作十郎範景が同神社へ参詣したときに詠んだ「民草(たみくさ)のたかへす雨の祈りにはここの宮居(みやい)の効験(しるし)たえせぬ」の詩歌を刻み込んだ石碑が建立されていた。
 同神社境内でお目にかかった宮総代の高井与一さん、志水義明さん、東本信治さんと地元・千本屋自治会長の千本春男さんの四人から聞いた話と同神社史を参考に想像もまじえて同神社にまつわる話をつづってみた。

 江戸時代から“水戸の黄門さま”として多くの人たちに親しまれてきた徳川光圀(とくがわみつくに)編纂(へんさん)の「大目本史」の神祇誌(しんぎし)によると、いまから1320余年も前の天武5年(677年)のこと。当地の豪族の首長のもとに「神様からのお言葉である」という天武天皇からの勅令が届いた。その内容は「我、宮殿を建てて敬い祀りなぱ甘雨を降らせ霖雨を止めん」というものだった。
 豪族の首長は、直ちに一族のものだけでなく、地元の人たちにも協力を求め、地域ぐるみの奉仕作業で神社を創建。古来から雨乞いの神様として信仰されている『たかおかみの神』をおまつりし“雨祈神社”と名づけた。同神社史には「高」は闇に対して山峰を指し、「おかみ」は龍神で雨を司る神様と記されている。
 同神社の本殿には祭神と共に“へーサラ・バーサラ”と呼ばれる直径10㌢ほどの神石がおまつりされている。この石は慈雨のお恵みをお願いする神事には、かかすことのできない貴重なもの。
旱天続きで、さっばり雨が降らず、里人たちの生活用水が不足、農作物の生育もあやぶまれるような時、村里あげての雨乞い神事が行われていた。神社に里人たちが勢ぞろい。みんなが力を合わせて青竹で棚を作り、この上に湧き水を汲んだ浄水を入れた器を置き、その器に、きっちり蓋をしたあと祭神に「どうか雨を降らせて下さい」と祈願。その浄水を神石に注ぐと慈雨がもたらせられたと伝えられているという。
 もう一つの話。むかし、昔のこと。村里一帯に毒を持つへビ“マムシ”が繁殖。噛まれて苦しむ人が相次いだ。そこで一人の老婆が「こんなことが続いては困る。神様にマムシ除けのお願いをしよう」と雨祈神社へ。鳥居をくぐり抜け、トボ・トボ歩きながら境内のアチ・コチを眺めているうち拝殿近くの古木のかたわらに大きな真っ白いへどが、とぐろを巻いているのを見つけた。
一瞬、びっくり仰天したが、真ぐに気を取り戻し「白いへビは、お宮の守り神に違いない」と思い、両手を合わせてお祈りした。しばらくすると白へビは本殿の方へ向かって姿を消した。老婆は、あわてて神前にぬかずき、神様に「マムシ除けをして下さい」と心を込めて祈願した。すると神様から「拝殿近くの砂を持ち帰り、家の周りに撒けばマムシ除けになる」とのお告げがあった。老婆は、さっそく拝殿横の砂を集めて帰宅。家の周りに撒いたところマムシが出てこなくなった。このことを知った近所の人たちも同神社にお参りして砂をいただき、家の付近だけでなくマムシの出そうなところに撒いたので、村里ではマムシに噛まれる人がなくなったと言い伝えられ、それ以来、同神社がマムシ除けの神様としても信仰されるようになったという。いまでもキャンプや登山する人たちが同神社におまいりし、拝殿横に積まれているマムシ除けの砂を持ち帰っているとのこと。
 同神社の春祭りは5月5日。秋祭りは10月瑚の“体育の日”に催され、子どもの御輿(みこし)練りなど行われる。
また、12月末の深夜には初詣の人たちに年越しのぜんざいをふるまうとのこと。
      (2004年9月掲載:山崎文化協会事務局)

雨祈神社(後半)

倉床『“白滝さん”と“お血”』

白滝さん

 昭和63年3月、当時の宍粟郡一宮町から発行された『一宮町史』の第九節「文化の発展」の3項目の「郷土の名勝・民話伝説」を再読していたところ、その中に“白滝さん”(倉床)と題する、お不動さまと“お血”にまつわる伝説が掲載されていた。前に読んだとき見落していたらしい。「これはいかん…」と、さっそく現地取材することにした。梅雨入りをしていたが時折り晴間もある日、現地取材に出かけた。
 宍粟市山崎町を車で出発。国・県道を北進して同市三方町にある宍粟市歴史資料館へ。同館内で同市一宮町内の伝説取材のとき、いつもお世話になっている田路正幸学芸員にお会いして
“白滝さん”の言い伝えのことについて話を聴いたあと、伝説の地に案内していただいた。
 同資料館から、さらに県道を北へ。約8㌔行った同町倉床地区の揖保川最上流にかかる浜廻橋近くの空地に車を止め、川沿いの狭い山道を、しばらく歩くと″白滝さん″が見えた。落差5㍍くらいの小さな滝だった。滝壷のすぐ横に木づくりの「白滝不動堂」があり、不動明王さまと神変大菩薩さまが、おまつりしてあった。
 不動堂の板壁には「この瀧は昔、むかし、その昔から、この村の人はもちろん、近郷の人々からも白滝さんと崇められて今日に至る…」=原文のまま=など、由来を書いた掲示板が張り付けられていた。
 田路学芸員は「雨降りのとき、滝の水がお米の磨ぎ汁のように白く見えるので、人々が何時しか“白滝さん”と呼ぶようになったと伝えられています」と滝の名付けについて話して下さった。
 『一宮町史』と田路学芸員から聴いた話を参考に想像をたくましくして“白滝さん”と“お血”にまつわる伝説をつづってみた。

 むかし、昔のこと。播磨の国の北西部、倉床の里(現在、宍粟市一宮町倉床)に、若いころから長期にわたって地域の人たちみんなの幸せを願って色々と尽力している親切な長者がいた。この長者が“還暦”の数え歳61歳になった。そのころの平均寿命は40歳くらいだったと推定され、元気いっぱいで“還暦”を迎える人は少なかったようだ。そこで村里の人たちが、より寄り相談。日頃お世話になっているお礼も兼ねて地域あげての「長寿をお祝いする会」を催すことになった。
 お祝の会では各家庭の主人らは会場の設営など。主婦たちは出席した人たちをもてなす料理の手づくりを担当することになった。主婦たちは開会の二日前から料理づくりの準備をはじめたが、出席する人たちが予想を超えたため、ご馳走を盛る“お血”が足りないことが判った。「どうしよう…」と、みんなで知恵を出し合ったが「これがいい」という対応策が決らず困ってしまった。
 その時、一人の主婦から「なんでもお願いごとをきいて下さる
“白滝のお不動さま”に祈願してはどうでしょう…」という発言があった。「そうやー、それはいい考えだ」というので、さっそく、みんな揃って“白滝のお不動さま”におまいりし「困っているんです。なんとか、あすの朝までに“お血”を貸して下さい」と、両手を合わせ、何度も頭をさげて祈願した。
 翌日、夜の明けるのを待って主婦たちが“白滝のお不動さま”を訪ねると、お堂の前に、お願いした数の“お血”が、きっちり並べられていた。主婦たちは大喜び。お祝の会に、この“お血”に手づくりのご馳走を盛り付けて出席した人たちに振る舞った。「料理もおいしかったが“お血”が立派だったのもうれしかった」と好評。宴席も大いに賑わった。
 宴会が終ったあと主婦たちは“お血”をきれいに洗って″白滝のお不動さま″のお堂の前にお返ししたが、その夜のうちに“お血”は、すっかり消えていた。
 このことがあってから、村里で長寿祝い、婚礼、お祭りなど祝いごとをする時には″白滝のお不動せま″に、お願いして“お血”をお借りするなど大変な恩恵を受け続けた。
 ところが、あるとき“お血”を借りた村里以外の人が誤って一枚の“お血”をこわしてしまった。あやまってお返しすればよかったのに「たくさんの“お血”の中の一枚くらい、こわれていてもわからへんやろ…」と足りないまま“お血”をお堂の前に返した。翌朝には、いつもの通り“お血”は消えていたが、それ以来、村里の人たちが、いくらお願いしても“お血”を貸してもらえなくなったという。
      (2005年7月掲載:山崎文化協会事務局)

“白滝さん” のお話は後半

(45)千種町『面白い昔話』

 「笑いながら暑さを忘れさせてくれるような面白い昔話が、あるかいなあ…」と思い、いろいろと調べをすすめていたところ、千種町内で、ものすごく大きな屁(へ)をぶっ放す『屁こき嫁』や三百八十歳を越える老翁『千草仙人』という、いまでは「ほんまかいなあ…」と驚かされるような話が語り継がれていることが判った。
 さっそく、同町岩野辺、在住の郷土のことに詳しい同町の前教育長、上山明さん宅を訪間し、昔話を拝聴。このあと同宅の直ぐ前。濃い緑の木立に包まれた庭の中にある『千草仙人』のものと伝えられるお墓へ案内していただいた。自然石の小じんまりしたお墓で、きれいな花と水がお供えしてあった。上山さんの奥様、桂子さんが、かかさずお墓にお参り。掃除やお供えを続けておられるようだった。
 上山さんから聴いた話と昭和47年、兵庫県教育委員会発行の民俗資料報告『千種』を参考に想像をまじえて二つの昔話をつづってみた。

 「屁こき嫁」

 むかし、昔のこと。ある山里の大家の息子がお嫁さんを貰った。お嫁さんは、すごい別嬪(べっぴん)。そのうえ働きものだった。しかし、一つだけ困ったことがあった。というのは ″プーウー・プーウー″ よく屁をこくことだった。お嫁さん自身も屁をこくことについては、ちょっぴり気兼しているようだった。そこで婿さんが気を利かせて、お嫁さんのお尻に大きな分厚い紙を貼り付けて屁が出にくいようにしてやった。その日、お嫁さんは屁をこかず、別になんということもなかった。だが、二日後のこと。お嫁さんの顔が真っ青。すごく、しんどそうだった。その姿を見た姑さんが心配して、お嫁さんに「どないしたんや…。どこぞが悪いんとちがうか…」と尋ねた。お嫁さんは言いにくそうに「お腹にガスがたまって苦しんです…」と答えた。姑さんは「かわいそうに…」と、いいながらお嫁さんの尻に貼ってあった大きな紙を剥がしてやった。その途端″ブーウー・ブーウー″と法螺貝(ほらがい)を精いっぱい吹いたような大音響と同時に屁による、すごい突風が起き、家の障子や天井が破れるわ、姑さんは庭までぶっ飛ばされるわ。家じゅう大さわぎになった。
 そこで姑さんが「いい嫁だが、なんぼなんでも、あんな恐ろしい屁をこくもんは家におくわけにはいかん…」と言いだし、お嫁さんは実家へ帰されることになった。次の日、お嫁さんは力の強い若者に荷物を持ってもらい里へ向かった。急ぎ足で歩いているうち、ある村里近くの道端で若者が枝もたわわに実った柿の木を見つけ「喉(のど)が渇いたので。あのカキが食いたいなあ…」と独りごとをいうた。すると、お嫁さんは 「私が採ってあげましょう…」 と大きなお尻を柿の木の方に向け一発、屁をぶっ放した、″ブーウー″という轟音、すごい突風。柿の実はバラ、バラ落ちた。若者は、思いもかけぬ音と風の強さに、びっくり。腰をぬかしたが、しばらくすると気をとりもどし「うまい、うまい…」と言いながら甘いカキを何個も食べて大喜び。お嫁さんの豪快な屁に大いに感謝したという。

「屁こき嫁」

「千草仙人」

 いまから1200余年も前の延歴2年(783年)春のこと。時の大領、春日部羽振のもとへ山里の人から「千草、岩野辺の大山(おおやま)に稀代の老翁が住んでいる」との注進があった。大領は老翁に出来るだけ早く館に来るように伝達した。数日後、老翁が館へやって来た。
 老翁は背高7尺5寸(約2.3㍍)の大男。1丈2尺(約3.6㍍)もある鉄棒と9尺(約2.7㍍)の柄のマサカリを持った勇ましい姿だった。
 そして「わしは千草の住人、山伏太夫小関の子で幼名は″小春″といっていた。十三歳のとき天狗にさらわれ、険しい山の中で暮らしているうち天狗から″われに仕えし返礼じゃ…″と言うて長命をさずかった。その後、380歳を経て山から高原に移住。修行して不老不死の術を身につけた。常食は″松のみどり″。毎日2斗(約36㍑)の水を飲んでいる」と語った。大領は、すごい長命と元気な姿に仰天したそうだ。
      (2004年7月掲載:山崎文化協会)

千草仙人のものと伝えられる墓

(44)泉龍寺『延命地蔵尊』

延命地蔵尊

 山崎町中心部、伊沢町の泉龍寺境内に「延命地蔵尊」がおまつりしてある。ずうーと以前から、このお地蔵さんを信心すると、いろいろの念願が叶えられ、とくに達者で長生きできると言い伝えられており、いまも近在の人たちのおまいりが続いている。
 野も山も美しい新緑に包まれた″春本番″の爽やかな日。同町内在住、同寺院の檀家で山崎町郷土研究会長として長い間、活躍されてきた郷土史の権威、堀口春夫さんを訪ね「延命地蔵尊」にかかわる話を聴いたあと泉龍寺へ案内していただいた。
 寺院の山門をくぐると直ぐ右側に木造の立派なお堂があり、その中にハスの花弁を型どった台座の上に北を向いてお立ちになった身丈1.2㍍ほどのお地蔵さんがおまつりしてあった。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうしゅ)をお持ちになり、首には色あでやかな赤い前垂をかけておられた。お顔は丸く柔和。表情は慈愛に満ちあふれていた。
 お地蔵さん前にはお願いごとを聞きとどけていただいた人たちが、お礼のため置いたと思われる“開願”の文字や年齢など刻み込んだ石づくりの小さなお地蔵さんが、ずらり並んでいた。
 また、お堂の中には「お地蔵様御眞言“おん訶々々微三摩曵莎訶(おんかかびさんまえひそわか)”とお唱えして心静かに家内円満、長寿福得、安楽往生をお願いして下さい。一切を仏様におまかせして大安心すれば、すべての悩みは解消されます」と書いた掲示板が取り付けられ、外側には“南無延命地蔵”の文字を染めぬいた職(のぼり)がはためいていた。
 堀口さんからいただいた江戸時代、享保17年(1732年)記録された「泉龍寺地蔵堂の由来」のプリントには『当境内にある地蔵尊は初め延命地蔵と称し、尼ヶ鼻崖下(寺町)に有りて北向き地蔵とて特に霊験あらたかなり。其の由来書に日く「夫れ佛種を頌える者は縁起に従い、今当寺に有る石躰の地蔵菩薩は往昔一人の男有りて、久しく武家に仕えて其の性強暴也。中年に至り、その過ちを発心して、当住持慶空上人の所に来たりて而うして衆髪を剃除し「善西」と号す。道心堅固にして先非を悔い、此の地の地蔵菩薩を尊崇し、石灯寵を造立し並びに一具の彿飼を寄付し畢ぬ。其の後、諸人参詣して立願するに忽ちにして千慈を成す…』=原文のまま=と記され、さらにこのあと檀家や信者によって立派な地蔵堂が建てられたことも記録されている。
 しかし、お地蔵さんをおまつりした経緯については記載されていなかった。
 そこで同町内の古老から聴いた話を土台に想像をたくましうして、お地蔵さんの建立された経過をつづってみた。

 いまから300年ほど前の江戸時代。同町内で飢饉や火災が相次ぎ、物情騒然とした世相が続いた。食べ物の不足による栄養失調で若して亡くなったり、火災で家を失い茫然自失の絶望状態に落ち込む人が増えていた。ある日のこと。一夜のうちに多くの町人が同じ夢をみた。その夢は「高貴なお坊さんが姿を現し“最上山、尼ヶ鼻の崖下に地蔵尊をおまつりして、みんなの悩みを解消して下さるよう心をこめて、お祈りしなさい。きっと願いを聞きとどけて下さるでしょう…”」というものだった。夢のことを知った地域の人たちは、何回も集会を開いて相談。みんなが力を合わせて泉龍寺境内に地蔵尊を建立。毎日かかさずお花を供えて、安心して楽しく暮らせる地域にして下さいとのお願いを続けた。しばらくすると、この願いが聞きとどけられ、食糧事情は好転、日を追うて暮らしがよくなった。その後は、みんなお地蔵さんに感謝しながらの生活したと、いうようなことだろうか…。

 なお、泉龍寺は、はじめ寺町の尼ヶ鼻(最上山)下、現在、山崎町財菅公営駐車場のところにあったが、江戸時代中期、地蔵尊と共に現在地の伊沢町にお移りになったとのこと。
      (2004年5月掲載)

延命地蔵尊堂