(30)一宮町 御形神社『百人一首』の絵馬など

 新春にふさわしい題材がないものか…と考えていたところ一宮町森添の御形神社の絵馬堂に、お正月の室内遊び、そして日本文学の古典を学ぶうえで学習資料としても多くの人たちに親しまれている「百人一首」の古い絵馬が飾り付けられているのを思い出した。伝説というより史実といえるものだが取材した。
 冬将軍の到来を告げる底冷えの朝、同町文化協会の大井直樹会長に同行をお願いして御形神社を訪ねた。進藤千秋宮司さんにお目にかかり、関係資料をもらったり、話を聞かせていただいたりしたあと、巨木の林立する境内にある〝舞台″と呼ばれる絵馬堂へ。木造約50平方㍍の堂内には「百人一首」の絵馬が、ずらり掲げられていた。絵馬の総数は17面。一面の大きさは横184㌢、縦58㌢。一つの面に5~6人ずつ合計百人の和歌と作者の姿絵が描かれていた。古いものとあって和歌の文字は、はっきり見えず読みづらかったが姿絵の方は美しくみごたえがあった。
 この絵馬が奉納されたのは、いまから156年前の弘化3年(1846年)。絵馬作りにかかわった地元、福野村の画工、石轉(いしころび)勝次さんと伊保(現在の高砂市伊保町)の浦人、加藤清風さんの奉納趣意はじめ願主名などを書いた額二面も掲げられていた。それによると「このお宮には古くから百人一首の歌が奉納されていたが、天保5年(1834年)の火災で焼失。このたび氏子中が願主となり再現奉納した。」=要旨=などと記されている。百人の和歌と作者の姿絵全部が揃っている「百人一首」の絵馬は全国でも極めて珍しく貴重なもの。
 「小倉百人一首」は、いまから約800年前、藤原定家が天智天皇から順徳天皇まで約560年の間に詠まれた和歌百首を各人一首ずつ選んで色紙形(しきしがた)とし、それに似絵(にせえ)を添えて障子に貼ったことからこの名があるといわれる。当初は宮廷の人たちの遊びにとり入れられたが、江戸時代からお正月の室内遊びの「かるた」として一般に普及したそうだ。
 同神社へ初詣で。そのあと国の重要文化財に指定されている室町時代末期の建築様式や技法を伝える極彩色の華やかな本殿や「百人一首」の絵馬を見学すれば、とくに歴史、文学、芸術に関心を持つ人たちにとっては新しい年を迎えるに当たって、いい思い出になりそう。 同神社にまつわる伝説は、いくつもあるが進藤宮司と大井会長から聞いた話と同町歴史資料館からいただいた資料を参考に想像もまじえて、その一部をつづってみた。

 同神社の祭神、葦原志許男(あしはらしこお)神が同社の東南約2㌔離れた高峰山に鎮座されていた奈良時代の宝亀3年(772年)のこと。村里の人たちが一夜のうちに三本の杉の巨木が里近くの森に突然生えるという不思議な霊夢をみた。みんなが集まって話し合った結果「高峰山におられる祭神が、この里の森へ遷座を所望されておられるのだろう」と、いうことになり、さっそく森の中に社殿を造営しておまつりした。これが同神社の起源だとも語り継がれている。
 また、祭神が高峰山から同神社の坂の下南の小さな丘に飛び降りられたところ、たまたま、そこに生えていた柚子(ゆず)の木で目を傷められた。そのため、この里には柚子が実らなくなってしまったとも伝えられている。
      (2002年1月掲載)

御形神社本殿
「百人一首」の絵馬の一部