さわやかな秋晴れの日。千種町西河内で昔から語り継がれている「鍋ヶ森」の伝説を取材するため同町役場を訪ねた。ふるさと振興課の小原壽課長にお目にかかり、鍋ケ森についての話を聞いたあと現地へ案内していただいた。
最初は西河内の集落にある鍋ヶ森神社へ。町指定天然記念物クマノスギの巨木が林立する小じんまりした鎮守の森の中に荘厳な社殿が建っていた。拝殿には里人たちが勢ぞろいで〝雨乞い踊り″をする姿を描いた絵馬が飾り付けられていた。次に、ちくさ高原スキー場に、ほど近い県道ばたにある高さ2㍍余り「元鍋ケ森神社鎮座地」と刻み込まれた石碑を見せてもらった。大正6年、同地区集落の中に還座されるまでは、この地に立派なお社があり、雨乞いの神様として信仰を集めていたという。
このあと林道を通りぬけ終点から狭い山道を登って、同神社の奥の院へ着いた。うっ蒼とした樹林の岩場に小さなお社が建っていた。すぐ近くを流れる谷川の河床には小石や渦流による侵蝕作用で出来るといわれる鍋のような形をした穴=「甌穴(おうけつ)」=があった。いい伝えでは、その数は大小12個ということだが確認はできなかった。この鍋のような穴が「鍋ヶ森」の呼び名とかかわりがあるのではなかろうか…。
小原課長から聞いた話と、同町の上山明教育長にいただいた資料。兵庫県教委が昭和47年に発行した西播奥地民俗資料緊急調査報告「千種」を参考に、想像もまじえ、諸説のある「鍋ヶ森」の伝説のうちの一つをつづってみた。
むかし、昔。いまからいうと九百数十年も前のこと。千草の荘、西河内の里(千種町西河内)に佐藤盛唯という人が住んでいた。ある日の夜、夢路に白髪で長いヒゲを伸ばした老翁が現われ『わしは、この奥の鍋ヶ森に住む大蛇じゃ。恥ずかしいことだが身を隠すことなく昇天した。すまんことだが亡骸(なきがら)を葬ってくれ。そうしてくれたら、この世が続く限り晴雨自在、五穀豊穣うたがいなし』 との、ご託宣があった。
盛唯は夜の明けるのを待って村の長(おさ)を訪ね、夢路のご託宣を告げた。村の長は、さっそく里人たちを集めて、ご託宣を伝えた上、相談。鍋ヶ森へ行き大蛇の亡骸を葬ることを決めた。あくる日、里人たちは険しい山を踏み分けて、やっとのことで鍋ヶ森へ。手分けして大蛇の亡骸を捜していたところ谷川に出来た甌穴の直ぐ近くの森の中に横たわっている亡骸を見つけた。しばらく休んだあと、みんなが力を合わせて、大きくて深い穴を掘り、手厚く亡骸を葬り、小さなお社を建てた。
それ以来、このお社にぬかづき干抜のとき、雨乞いをすれば、たちまち雨が降り。長雨が続いたとき、晴天を祈れば、たちまち雲が割れ、空が晴れわたったという。この、あらたかな霊験は里人たちを大いに喜ばせたと伝えられている。
地元の人の話によると、雨乞いのためには「鍋ヶ森さんが踊りが好き」というので、里人たちが社前で踊りを奉納。そのあと神官を中心に雨乞いをしたそうだ。いまから五十数年前までは、近在はもとより、播州、但馬の各地はじめ岡山、鳥取両県内からも雨乞いのため鍋ヶ森のお社に、おまいりする人たちが多かった。他所の人たちは社前で神官に雨乞い祈願をしてもらったあと、お灯明の火を火ナワに移して持ち帰り、これを火種にして灯明をあげ、地域の人たちが、そろって雨乞い祈願をするのが例だったとのこと。
(2991年11月掲載)