(43)木谷『乳神様(ちちがみさま)』

 平成9年3月、山崎町老人クラブ連合会が発行した「いいつたえ」と題する小冊子を読んでいたところ同町木谷の山の中に、おまつりしてある“乳神様(ちちかみさま)”の伝説のことが掲載され、最後尾に出典 木谷一老人と記されていた。さっそく地域のことに詳しい同町教育委員会の大西耕雲教育長を訪ね、この伝説についての色々の話を聞き、後日、ご無理を申しあげて伝説の現地へも案内していただいた。
 同町中心部、鹿沢の町役場庁舎前を出発。同町と佐用郡南光町を繋ぐ県道を西方へ約1.5㌔。菅野川に架かる木谷橋の西詰めを左折して町道と林道を通って約1㌔行ったところに “乳神様” が、おまつりされていた。谷川沿いにご神体ともいわれる大きな岩石(磐座=いわくら)がどっしり。その前に小さな祠(ほこら)があり、谷川を挟んで昭和29年改築されたという祈願所が建立されていた。付近は深い森に囲まれ、古木もあって神秘的な環境が描き出されていた。
 大西教育長はじめ同町内のお年寄りに聞いた話と「いいつたえ」の小冊子を参考に想像もまじえて “乳神様” の伝説をつづってみた。

 いまから2百数十年前、江戸時代のこと。村里の数人の若者たちが、住居の直ぐ西方にある山地の探索をした。古木や雑木の生い茂げる険しい山の中を汗だくだくになりながら、あちこち歩き回っているうち山肌を縫うて流れる谷川の源流近くで8~10㍍四方もあろうかと思われる巨大な岩石を見つけた。岩石の割れ目からは母乳のような淡い白色の液が流れ出ていた。びっくりした若者たちは急いで村里に帰り、古老たちに巨岩の話をしたところ「その大岩石には、きっと神様が鎮座されている」とのことだった。そこで古老たちが主体となって村をあげての集会を開いて相談。みんなが力を合わせ懇(ねんご)ろにろに神様をおまつりすることを決めた。さっそく吉日を選んで奉仕作業を始め、約2ヵ月がかりで巨岩の前に祠と祈願所を建立。1㌔余もある参道もつくった。
 完成のお祝いの日には村人たちが巨岩の前にずらり並び、いっせいに両手を合わせて無病息災を祈願した。その中の一人。かわいい男の子を出産したが、お乳の出がよくない若妻は、無病息災と合わせて「お乳がたくさん出ますように‥」と、心を込めてお願いした。すると、その日からあふれるほど十分お乳が出るようになった。若妻はもちろんのこと、家族みんなも大喜び。直ぐに神様へのお礼まいりをし、お米と子どもを型どった紙人形をお供えした。
 若妻が神様からお乳を授かったことが口伝えで地元はもとより播州各地にも広がり、日を追うて遠方からも、お乳の出のよくないお母さんたちの参詣が続き、いつとはなしに “乳神様” として崇敬されるようになったという。
 「いいつたえ」の小冊子によると『 “乳神様” にお参りするときのお供えは「お米」「ワラに木炭を包んださげもの」「子どもを型どった紙人形」「十二支の絵馬」が多かった。その意味は、木炭は汚れのない身と心。紙人形は子ども。絵馬は子どもの生まれ年を表わしたものではなかろうかー。お参りの仕方については道中、出会った人と話をしてはいけない、帰る途中、後を振り返ってはならない』=要旨=などと記載されている。
 古老たちの話によると「ずうーと以前は、いまのように乳児用専門の飲み物が手軽に買えることがなく、お乳の出のよくないお母さんたちは乳母を捜して「もらい乳」をしたり、水の量を多くしてお米を炊き上澄みの糊状の汁「重湯(おもゆ)」をつくって赤ちゃんに吸わせるなど子育てには大変苦労をしていた。それだけに神様からお乳を授かった喜びは大きかったのではないか…」とのこと。
      (2004年3月掲載)

“乳神様”の祈願所

(38) 『大歳神社の千年フジ』

 山崎町上寺、大歳(ださい)神社境内の『千年フジ』は、氏子代表の人たちが丹精込めて手入れを続けた甲斐あって今年も順調に成育。この″サンホールやまさきニュース″が皆様のお手元に届けられるころには同神社境内いっぱいに広がるフジ棚から50cm以上にも伸びた花房が、ずらり垂れ下がり、淡いムラサキ色の美しい花を咲かせ、付近一帯に爽やかな甘い香りを漂よわせていることでしょう。
 『千年フジ』の大きさは根回り約2.8m、目通り幹回り約3m、樹高約2.8mで幹は十本ほどが束になっている。枝張り面積は約420平方メートルもあり、境内をほとんど覆いつくしている状態。昭和47年、兵庫県の天然記念物に指定され、さらに平成13年、環境省による「かおり風景100選」にも選ばれている。
 フジの巨木の直ぐ前に同町教育委員会による兵庫県指定・天然記念物の標示板が建てられているが、このなかに「この藤は天徳4年、上寺の与右衛門が植樹したといわれる」=要旨=と記されている。そこで『千年フジ』についての伝説があるのではないかと思い同神社の宮総代を長い問つとめ、フジの手入れにも努力された同町文化協会の長川耕一副会長宅を訪問。同神社への同行をお願いし、境内でいろいろ語り合った内容と近在の人たちから聞いた話を参考に想像をたくましゅうして『千年フジ』にかかわる伝説をつづってみた。

 おお昔のこと。大歳神社近くの村里に心やさしく働きものの与右衛門という若者が住んでいた。15歳になったとき多くの村人たちの祝福をうけ、同神社で元服の式、いまでいう成人式をあげた。そのころ元服した若者は近在にある名山の天辺(てっぺん)に登り、下山するとき必ず山から植物を持ち帰って育成するという風習があった。与右衛門も、この風習に従がって、いまの最上山の頂上に登り、神様に今後の幸運と五穀豊穣を祈願。下山する途中、森の中を歩き回って大きなフジの木を見つけ、その枝を折って帰宅。さっそく畑に挿し木して育てはじめた。
 当時、フジは実を火であぶって食べ、ツルはカゴを編んだり、物をしばるのに使うなど用途が多く日常生活に必要性の高い植物だった。そこで元服した若者たちが山から持ち帰る植物のうちフジが多かったようだ。
 与右衛門は畑に挿し木したフジの手入れに努め、数年後には樹勢のよい立派な苗木に育てあげた。天徳4年(960年)の春。この苗木を同神社へ持ち込み、そのころ境内中央付近にあった1坪(3.3平方メートル)ほどの池のほとりの適地を選び「大きく生長して、一日でも早く美しい花を咲かせてほしい」との願いをこめて丁寧に植え付けた。
 それ以来、約四十年間、与右衛門は水かけ、施肥、剪定などの手入れを続行。フジはグングン生長し毎年、4月下旬から5月初旬にかけて見事な花を咲かせ近在の人たちを大いに楽しませた。与右衛門が天寿をまっとうしたあとは同神社の氏子の人たちが故人の遺志を受け継ぎ、およそ千年、気の遠くなりそうな長期間にわたって手入れ作業を続け、いまのような全国でも屈指の巨木『千年フジ』に育てあげたという。

 同神社の「藤まつり」は今年も連休の5月3日から5日までの3日間、盛大に催される。
      (2003年5月掲載:山崎文化協会事務局)

(42)宍粟郡 『わらすべ長者』

 宍粟郡北部地域。とくに千種町内で、ずうーと前から『わらすべ長者』という話が語り継がれている。大筋では「貧しい若者が“わらすべ”を手にしたことが切っ掛けで幸運が続き、裕福で幸せな長者になる」という話。しかし、幸運に恵まれる経過の中身は各地域で、まちまちだった。
 千種町の上山明・前教育長はじめ、あちこちの人たちに聞いた話を大雑把にまとめたうえ昭和47年、兵庫県学校厚生会から発行された「郷土の民話」を参考に想像もまじえて『わらすべ長者』の話をつづってみた。

 むかし、昔。同郡北部の山里に働きものだが貧しい若者が住んでいた。来る日も、来る日も地元の庄屋さんに頼まれて農作業、山仕事など精いっぱい働いていたが収入はほんのちょっぴり。暮らしは少しもよくならなかった。
 ある日のこと「こんな暮らしをしていては、どうにもならん…。どこかへ行って一旗あげよう…」と思い立ち旅に出た。山里を少しでも早く離れたいと急ぎ足で歩き続けたので5里(約20㌔)ほど行ったところで疲れが出て、ぐったり。道沿いにあった寺院に立ち寄り、本堂近くの廊下にゴロリ寝ころんだ。しばらくぼんやりしているうちに、ぐっすり眠ってしまった。そのとき「お前は、これからきっと幸せになるぞ…。なんでもエエから手の中にはいったものは大事にせえ…」との夢をみた。
 この夢に力づけられた若者は、寺院を出て足どりも軽く歩きはじめた。ところが、どうしたことか路上にあった石につまずきドスンと、ころんだ。あわてて起きあがったら手の中に “わらすべ” =稲わら=を握っていた。若者は、この “わらすべ” を持ち鼻歌まじりで歩き続けた。
 小さな村里に差し掛ったとき、一匹のアブが飛んで来て顔の回りをブン、ブン。迫うても迫うても逃げなかった。若者は「うるさいやつや…」と言いながら手のひらでアブをつかまえた。さっそくアブを “わらすべ” の先に結び付けブン、ブンいわせながら先を急いだ。
 しばらくすると、子ども連れの大家の奥さんに出会った。そのとき子どもがアブを見て「あれがほしい…」と奥さんにねだっているのを聞いた。さっそく若者はアブを付けた “わらすべ” を子どもにやった。すると奥さんが、お礼に大きなミカン3個をくれた。「アブと “わらすべ” が3つのミカンになった」と若者は大よろこび。直ぐに食べるのは惜しいので木の枝に包み紙ごとくくりつけ肩にかついで歩いた。
 やっと峠の頂上近くまで登ったところ身形(みなり)のよいおかみさんが道端に坐り込んで、あえいでいた。若者は「どうしたんですか…」と覗いてみたら、おかみさんは、か細い声で「遠いところから旅を続けて、ここまで来たんですがノドが渇いて絶え入りそうです…」と答えた。若者は大切にしていたミカンを出し「これを食べなさい」と、おかみさんに渡した。おかみさんは三つのミカンを食べ終わると、みるみる元気を取り戻し、繰り返しお礼を言いながら新しい木綿三反をくれた。
 それから反物を背負って歩いていると、村里の大きな家の近くでウマが口から泡を吹きながら倒れていた。腹痛を起こしたらしく飼い主の庄屋さんは困り果てていた。そこで「この反物を腹に巻いてやったらどうでしょう…」と若者は力を振り絞ってウマの腹に反物をグルグル巻きつけた。しばらくするとウマは元気になった。このウマは参勤交代のため江戸へ荷物を運ぶウマだった。庄屋さんは若者に「すまんが急いでいるので、わしが帰るまで家の留守番をしといてくれ…」と頼み、あわててウマをひいて旅立った。 若者は、しっかり留守番を続けていたが待っても待っても庄屋さんは帰ってこなかった。若者は仕方なく、この家に住みつき、庄屋さん所有の広大な田畑や山林の手入れなど懸命に続けて財を重ね、裕福で幸せな暮らしをし、近在の人たちから『わらすべ長者』と言われたという。
      (2004年1月掲載:山崎文化協会事務局)

(37)安富町 『植木野天神のムクノキ』

 安富町植木野に昭和49年3月、兵庫県の天然記念物に指定された「植木野天神のムクノキ」がある。このムクノキに関わる伝説があると聞き取材した。
 好天候だが冬型の寒い日、同町教育委員会を訪ね、川畑信幸事務局長と同町文化協会の小坂隆雄会長にお出会いして話し合ったあと、小坂会長にお願いして伝説の現地へ案内していただいた。
 同町中心部の安志地区から国道29号線を南へ約3㌔。ガソリンスタンドに隣接した信号機のあるところを左折。町道にはいって林田川にかかっている護持越橋を通り200㍍ほど東方へ進むと植木野天満神社があり、その境内にびっくりするほど大きなムクノキがそびえ立っていた。根元の直ぐそばには「兵庫県天然記念物・植木野天神のムクノキ」と刻み込まれた石柱が建ち、どでかい幹には地元の人たちが力を合わせて作られた大きなシメ飾りが巻き付けられていた。
 宍粟郡文化協会連絡協議会が発行している「しそうの文化財」に記録されているこのムクノキの大きさは根周り10.5㍍、目通り幹回り6.2㍍、樹高18.6㍍、枝張りは東へ8㍍、西へ10.1㍍、南へ13.2㍍、北へ8.5㍍。老木の風格を備え見事に整った樹勢は県下有数の巨木として価値が高い、とも記されている。ムクノキの太い幹の中心部には大きな穴があいており、この空洞は昔、落雷を受けたキズあとだといわれている。同天満神社で、お目にかかった植木野地区の山下茂老人会長と小坂文化協会長から聞いた話と同町老人会発行の「伝承安富」を参考に、想像もまじえて「植木野天神のムクノキ」に関わる伝説をつづってみた。

 むかし、昔のこと。毎年、旧暦の10月(神無月)に全国各地の神様が出雲の国(現在、島根県)の出雲大社へお集まりになり、それぞれの神社の氏子の男・女の縁結びについて、いろいろの話し合いをされていた。植木野の天神さまも、この集会にご出席なさっていた留守中のこと。同地区にかつてない大きな出来ごとが起こった。
 晩秋というのに何時(いつ)にもなく暖かい午後のこと。植木野地区一帯は心地(ここち)よい青空が広がっていた。ところが、なぜか一天にわかにかき曇り″ピカー!ピカー!″と目を刺すような稲光。″ゴロ・ゴロ!″と耳をつんざくばかりの雷鳴がとどろいて激しい雷雨が来襲した。田んぼや畑で仕事をしていた村人たちは、あわてて家の中にかけ込み、目を閉じ、両手の平で耳をふさぎ、小さくうずくまって雷が行き過ぎるのを待った。しかし、長いあいだ雷雨が続き″ピカー!ゴロ・ゴロ!ドスン!″と、あちこちに落雷。カヤ茸きの屋根にでかい穴があいたり、火災が発生するなど思いもかけぬ大被害をうけた。この時、雷の一つが天満神社のムクノキを直撃、幹に大きな穴があいた。
 雷の大きな被害をうけ、村人たちが嘆き悲しみ、途方に暮れているとの情報を伝え聞いた天神さまは出雲の国から急いで植木野地区にお帰りになり、村人たちを慰(なぐさ)め、励ましたうえ、みんなと「これから植木野には落雷がないようにしてあげましょう」と約束。「幹に空洞の出来たムクノキも枯れずに成長するように…」と、天に向って長時間にわたって祈願された。それからは同地区に激しい雷雨があっても雷が落ちたことがなく、ムクノキもどんどん大きく育ったという。

 山下老人会長は「子供のころは友だちと一緒にムクノキに登ってよく遊びました」「七十歳になりましたが、私が物心ついてから今までには植木野地区に落雷の被害があった覚えはありません。天神さまの祈願のお陰でしょうか…」と話されていた。
      (2003年3月掲載:山崎文化協会事務局)

植木野天神のムクノキ

(67)波賀町谷『淡嶋神社と庚仲塚』

庚 伸 塚

 あした、出稿の締め切り日なのであわてて原稿を書いている。
 先般、宍粟市山崎町にある宍粟防災センターで同市文化協会の理事会が開かれたとき、会議の終わるのを待って、同市波賀町文化協会長の大成みちよさんにお会いして「宍粟市山崎文化会館発行の″サンホールやまさきニュース″に連載されている″郷土の伝説と民話″に掲載したいのですが、いままでにこのニュースに記載された波賀町内の『チャンチャコ踊り』など8件の記事以外に同町内で何か昔からの言い伝えがありませんか」と、お尋ねしたところ、大成会長から「直ぐ波賀町内の古老の方々に伝説のことを聞いたうえ、ご連絡いたします」との、うれしい返事。しばらくしてから大成会長から「波賀町谷地区に伝説があるとのことです」との電話があった。「よかったー」と思い、さっそく取材することにした。
 シト、シト、小雨の降る日、宍粟市山崎町中心部を車に乗って出発。国道29号線を約20㌔北進し波賀町小野の大成文化協会長宅を訪問。会長に案内していただいて伝説のある同町谷地区へ向かった。国道をしばらく南へ走り揖保川の上流、引原川に架かる″谷橋″を西方から東側に渡ると同町谷地区へ着いた。
 同地区では自治会長の森本都規夫さん、地元のことに詳しい大島弘さんにお出会いし、さっそくお二人の案内で昔の話をよく覚えておられる同地区の大島ソウさん宅を訪間。ソウさんから淡嶋神社のことなど同地区で昔から語り継がれている話を聞かせていただいた。ソウさんは90歳。昔の話にはなかなか詳しく、しっかりした話ぶりだった。このあと同家の美子さんの先導で伝説の地へ。道路ばたに建っている″右まがり・左あわしま″と刻まれた石の道標のあるところから坂道と石段を登ると山すそに淡嶋神社(あわしまじんじゃ)と、その近くに庚伸塚(こうしんづか)があった。神社は木造五坪ほどの小じんまりしたお宮で、美子さんらのお世話で、よく整理されていた。庚伸塚は高さ1m60cm、幅55cmの石碑だった。
 森本自治会長、大島の弘さん、ソウさん、美子さんから聞かせていただいた話と波賀町教育委員会から平成3年に発行された″波賀町ふるさとの文化財″はじめ関係書籍に記載された内容を参考に想像も混えて淡嶋神社、庚伸塚の伝説をつづってみた。
 淡嶋神社には主神の少彦名命(すくなひこなのみこと)と二神がおまつりされている。主神は″医療″の神様と伝えられており、とくに婦人の病気の平癒(へいゆ)、安産、子授かり、長命などに霊験があるとかー。神社におまいりしたとき身に付けている″かんざし″や″赤い布きれに自分の名前を書いたもの”をお供えすると、いっそうのご利益があると伝えられている。ソウさんは「昔、なかなか治らない婦人病にかかった人が淡鴫神社におまいりしたところ、まもなく全治した」との話を聞いておりますと話されていた。
 庚伸さまは、いろいろの悪霊から身を守ってくださると言われている。谷地区の庚伸塚については、″波賀町ふるさとの文化財″の中には『庚伸信仰は、人の身体の中に三尸(さんし)の虫がいて庚伸の夜睡眠中に抜け出し、天に上がって天帝にその人の罪科を報告するといわれ、庚伸の夜は眠らずに修業したと伝えられている。三尸の虫とは上尸は人の頭に居て目を悪くし顔に皺を作り、髪の色を白くする。中尸は腸の中に居て五臓を損なわし、飲食を好む。下尸は足に居て命を奪い精を悩ますといわれる。しかし庚伸の夜、徹夜して祈れば災い転じて福となるといわれる』=原文のまま=と記載されている。
 ある辞典に波賀町谷について「揖保川支流引原川下流域。山々に囲まれた渓谷で古くから因幡街道の要所にあたり、豊富な谷川の水を利用して耕地が広がり、早くから人々が集落を営んでいた。明治24年の戸数は72。人口は379人…」などと記載されている。大島弘さんは「現在、淡嶋神社のすぐ近くを通っている幅1㍍余の道が昔の因幡街道だったのですよ…」と話されていた。
   (平成20年11月:宍粟市山崎文化協会事務局)

よく整理されている淡嶋神社

(66)黒原『黒原の子安地蔵』

宝形造りの立派なお堂

 宍粟市企画部・まちづくり防災課の椴谷米男課長の、ご好意で同市一宮市民局発行、地域資源情報誌編集委員会の編集による播磨いちのみや・ふるさと発見『いちおし』vol⑦と⑧の小冊子二冊をいただいた。
 さっそく読んでみた。するとvol⑧の中に「いちのみや神社・仏閣を訪ねて」という見出しで一宮町繁盛地区に所在する神社・仏閣が紹介されていた。その末尾の「観音山仏心寺」の項に同町黒原地区に、今から500年ほど前の室町時代につくられた木彫の『子安地蔵』のことが掲載されていた。「古くて木づくりという珍しい地蔵さんだなあ…」と思い取材することにした。
 猛暑続きだった8月中旬を過ぎ、ちよっびり涼しくなった日の朝、同市山崎町中心部を車に乗って出発。
 国道29号線を北進、同市一宮町安積から宍粟と但馬を繋ぐ県道6号線にはいり、さらに北進して同町三方町にある宍粟市歴史資料館を訪ねた。
 同資料館では同市教育委員会・社会教育課文化財係の田路正幸さんにお目にかかり「子安地蔵さん」についてのいろいろの話を聞き、地蔵さんのことについて記載されたプリントをいただいた。その内容は『黒原の子安地蔵』と題するもので「このお堂の本尊としてまつられている木造地蔵菩薩は、右足を左膝のうえにのせた等身大の半伽像で、右手に錫杖(しゃくじょう)を左手には宝珠(ほうじゅ)を持ち、うしろには光背(こうはい)を背負っています。両脇には、守り神として等身大の不動明王(むかって右側)と毘沙門天(むかって左側)を従えています。
 ある言い伝えによると、今から500年ほど前の室町時代に
左近太夫(さこんだゆう)というものがこの地をおとずれ、一本の大木から三体の地蔵を刻みつけたといいます。一番目は黒原の地蔵で、二番目は山城国山崎(現在の京都府大山崎町)三番目は安芸国広島(現在の広島県)にあるということです。(『兵庫の地名』・平凡社・1999年刊による。)
 地蔵菩薩は、もともと六道の衆生の救済を釈迦からゆだねられた仏とされています。とくに子どもを守り救う仏として童形で現れると考えられ、広く庶民の間で親しまれてきました。黒原の子安地蔵も、子授かり、安産のお地蔵さんとして有名で、今も近隣の人々に篤く信仰されています。」というものだった。(原文のまま転載)
 このあと、田路さんに案内していただいて、「子安地蔵さん」が、おまつりしてある現地に向った。歴史資料館から車で出発。同町と但馬の朝来を結ぶ国道429号線を北東方向に10㌔ほど行き同町黒原地区へ。笠杉トンネルに、ほど近くの同地区内の国道から左折して地域道にはいり急坂を登ると直ぐ近くの古風で立派なお堂の前に着いた。お堂は地元の人たちによりよく手人れをされており、この中に田路さんからいただいた「黒原の子安地蔵」に記載されている通り、中央に「子安地蔵さん」両側に不動明王と毘沙門天が、おまつりしてあった。
 「子安地蔵さん」は、素晴らしい木彫で、お顔はやすらかな表情。両側の守り神二体は、きりきりとひきしまった顔をされていた。「子安地蔵さん」は、見れば見るほど神神(こうごう)しさがつのる思いだった。
 田路さんは 「このお堂は″宝形造り″です」。「ここは黒原奥組といわれるところで、昔から播磨と但馬をつなぐ交通の要でした」。「子安地蔵さんを刻みつけられた左近太夫は仏像を専門につくる″仏師″だったようです」など話してくださった。
 角川日本地名大辞典によると黒原の地名は「秀吉の但馬征伐軍が当地を通過する途中に日没したことに由来する。」と記載されている。秀吉の但馬征伐は永緑12年(1569年)だった。
 同地区の名称は江戸時代から明治22年までは「黒原村」、その後は「宍粟郡繁盛村黒原」「同郡一宮町黒原」今は「宍粟市一宮町黒原」になっている。戸数と人口は寛文年間、36戸、213人。明治14年、55戸、227人、現在は48戸、181人
(平成20年7月末現在)。
 最後になったが『いちおし』に「子安地蔵」について「毎年9月24日には仏心寺住職により大般若祈祷が厳修されています」と記載されていた。
   (平成20年9月:宍粟市山崎文化協会事務局)

中央が子安地蔵。
右側は不動明王。左側は毘沙門天。

(58)宍粟市山崎町『力石(ちからいし)』

「ひちりき神社」の本堂近くに並べられた「力石」

 本棚の整理をしていたところ、宍粟市教育委員会・社会教育課・生涯学習係・生涯学習センター学遊館の亀井義彦係長から、ずっと前にいただいていた『山崎町の力石』と題するプリントが出てきた。「いいものを見つけた」と思い、さっそく懐かしく再読した。
 全国各地の「力石」・「力くらべ」の調査研究をされている姫路市出身の四日市大学健康科学研究室の高島慎助教授が平成6年に書かれた当時の宍粟郡山崎町内の「力石」についての具体的な調査結果が記録されたものだった。
 調査記録の巻頭には研究の動機として『江戸時代から昭和の初期まで、全国のほとんどの集落で行われていたのが「力石」を用いての「力くらべ」(力持ち)である。昔の人々は、すべての労働を人力に頼るしかなく必然的に個々人の体力が必要とされ、
各種の力くらべや身体を鍛えることが行われ、同時に数少ないレクリエーションとしての役割も果たしていた。 もともと「力石」は農村では米俵を、漁村や港湾地域においては醤油、油および酒樽などの運搬に従事する労働者の間から発生したものである。しかし力仕事が人力から機械に移るとともに種々の娯楽が増え「力石」の必要性が失われていった。今では「力石」の意味はもちろん、その存在すら忘れ去られようとしている。その反面、確認された「力石」については自治会、老人会および教育委員会などにより郷土の文化遺産として次々と保存されつつもある。このように庶民および郷土の文化遺産として見直されている「力石」を今のうちに調査確認しておかなければ全く陽の目を見ることなく歴史の闇の中に葬り去られてしまうであろう』=原文のまま=と記載されている。
 山崎町での「力石」の調査は前記、亀井係長はじめ自治会長・老人クラブ役員、文化財審議委員らも協力して実施され、農山村地域の神社境内などで51個の「力石」があることが確認されている。「力石」の形は、ほとんどが楕円形で表面がデコボコの少ない野面石(のづらいし)。重さは米俵1俵16貫(60㎏)を基準に20貫(75㎏)から30貫(112.5㎏)のものが多かった。
 昔の人たちは暇をみつけては神社境内などに集まり「力石」を持ちあげるなどして身体を鍛え、年に数回は地元の人たちの大声援を受けての「力くらべ」を大いに楽しんだという。全国各地からの言い伝えでは「力くらべ」で優勝した男には「酒一升がもらえた」「当時では珍しい白米を腹いっぱい食べさせてもらえた」「美人の嫁さんがもらえた」「遊郭に行くのが許された」などと、記録されている。
 もう直ぐ“秋”というのに、むせかえるような暑い日。同町内の「力石」が保存されている現場を見て回った。一箇所で一番多い10個もの「力石」が見つかつたのは同町須賀沢・出石(いだいし)の「ひちりき神社」の境内。現在、ここの「力石」は神社本堂の隣接地にずらり並べて展示され「力石」と刻み込んだ小さな石柱がたっている。地元の古老は『このお宮の直ぐ近くを流れる揖保川一帯には昔、高瀬船の船着き場などがあり、ここで働いていた人たちが身体を鍛えるため神社境内に集まって「力石」を用いての「力くらべ」などして楽しんでいたと聞いております』と話してくださった。同町中広瀬の夢公園には、西北から入口近くに同町庄能の大水戸神社境内にあった4個の「力石」を持ち込んで展示。石にはそれぞれの重量が刻み込まれており一番重いものは125㎏。軽いのは72.1㎏。同町金谷の墓地にある「力石」は光岡安治郎顕彰碑として保存され重量や年代など刻み込んだ“切付(きりつけ)”があった。
  (2006年9月掲載:宍粟市山崎文化協会事務局)

夢公園に展示されている4個の「力石」
光岡安治郎顕彰碑になっている金谷墓地の「力石」

(65)菅野地区『地蔵の話』

 昭和59年。当時、宍粟郡山崎町鹿沢にあった山崎農業改良普及所が発行した『すがの』と題する小冊子を読んだ。
 この冊子には現在の宍粟市山崎町菅野地区の″昔のくらし″などが記載されていたが、その中に″いいづたえ″という項日があり「宮の谷と若西神社」「時朝五郎左衛門顕彰記」「切窓峠で狐(きつね)につままれた話と送り狼(おおかみ)」「地蔵の話」「春安の耳の神さん」「木谷市場に残る神様-乳神様」「市場の鬼面さん」の7つの伝説の掲載もあった。このうち「若西神社」「乳神様」「鬼面さん」の3つの言い伝えは、すでに、この「郷土の伝説と民話」のシリーズに掲載ずみだったので今回は『地蔵の話』という伝説を取材することにした。
 さっそく長い間、仲よくしていただいている菅野地区高下在住の元山崎町助役の長田一三さんに電話。『地蔵の話』の詳しい内容について尋ねたところ、長田さんから「あなたの言われる伝説について、詳しく調べたあと連絡します」との有難い返事をいただいた。
 その後、長田さんは菅野地区在住の歴史に詳しい識者や古老の方々20名に伝説の話を聞くなど積極的な調査をすすめてくださった。
 数日後、長田さんから「伝説の地蔵さんが、おまつりしてある現場へ案内しますから来てください」との電話があり、よろこんで取材に出かけることにした。
 「梅雨の晴間」といえる好天候の日の朝。宍粟市山崎町中心部を車で出発。山崎、佐用両町をつなぐ県道を西方へ約4キロ走って長田一三さん宅を訪間。長田さんに車に同乗してもらい、再び県道をさらに西方向へ約3キロ進み、美しい新線の山々に囲まれた同地区の″青木″に着いた。そこで地元の谷林義明さん(77)と谷林滋夫さん(79)にお会いし、待望のお地蔵さんが、おまつりしてある現場へ。
 県道ぞいの谷川にかかる小さな橋を渡り、昔からある幅2メートルほどの古道にはいると、すぐ近くの山すそに伝説にいう石づくりの、お地蔵さんが、おまつりしてあった。
 地蔵さんは高さ60センチほどの石積みの上にたてられており、大きさは高さ65センチ、幅27センチ。中央に、ほほえましい子供の顔。その横に正徳3年の文字が刻みこまれていた。この素晴らしい子供の笑顔が『童蔵』と言われるようになったのではなかろうかー。
 お地蔵さんの前には、お水ときれいな花がお供えしてあった。すぐ近くに居住されている谷林美代子さん(83)が、ずっーと前からお地蔵さんの手入れやお供えをかかさず続けておられると聞き感心した。
 お地蔵さんの直ぐ横手には椿の古木とカシワの大木が聳(そび)えていた。
 『すがの』の小冊子の中の『いいつたえ』の項日の「地蔵の話」には、
 『青木集落に「堀田」という所があります。ここの道端に今も無名の童蔵(年号、正徳3年3月24日)があります。この童蔵にまつわる話です。
 童蔵のある道を女の人が歩いていました。この当時はとても道がせまかったのです。
 この道のむこうから武士がやってきました。ぶつからないようにと思い、女の人はよけて通ったのですが、通りすがりぎわに武士の腰の物にふれてしまい、打ち首になって死んでしまいました。堀田の衆は、この女の人を気の毒に思い、墓をほってうめてやりました。
 その夜のことです。赤ん坊の泣き声がどこからか聞こえてきます。村人は不審に思いさがしたところ、童蔵の左側に植わっている椿の根元に赤ん坊が根をくわえて、椿の液をすって生きていました。
 私達は子供のころに、「椿を切ると血が出る、椿の枝を切るな、さわるな」とよく言われたものです。』=原文のまま転載=と、記載されている。
 この内容について長田さんと両谷林さんと立ち話。「武士の刀で斬り殺された女の人の遺体を″かわいそうに…″と、近在の人たちが力を合わせて埋葬されたことはよくわかる。」「しかし、その夜、赤ん坊が椿の根元で椿の液をすって生きていたということは、あり得ないことではなかろうかー」「殺された女の人が妊娠していたのかなー。」「赤ん坊は近所の人に助けられ、立派な女性に成長したのか、そのまま亡くなったのかー。わからんなあー。」など話し合った。
 このお地蔵さんは、いまから295年前の江戸時代、正徳3年(1713年)に作られた古いものであり『童蔵』といわれるほど可愛い子供の笑顔が刻みこまれているのは珍らしく一見の価値はありそう。
   (平成20年7月:宍粟市山崎文化協会事務局)

伝説のお地蔵さん

(36)宍粟郡『年桶(としおけ)』

 宍粟郡内の家々。とくに山間部の各家庭で、お正月を迎えるのに当たって、新しい年の幸運、家内安全、五穀豊穣などを年神様にお願いする伝統の『年桶(としおけ)』の行事が受け継がれている。
 毎年、繰り返し『年桶』の行事をしていると、おっしゃる波賀町文化協会の大成みちよ会長、山崎郷土研究会の大谷司郎会報部長はじめ、あちこちのお年寄りに年桶行事のことを聞いてみたが、各家庭とも、その内容が少しずつ違っていた。
 大まかにまとめてみると、年の瀬の押し迫った大晦日の12月31日、歴代伝わる直径35㌢前後、高さおよそ30~40㌢の『年桶』を持ち出し、桶の中に米1升2合(約1.8㌔)鏡モチひと重ね、小モチ12個、お金を12の倍数、120円から12,000円程度を入れ、さらにクリ、豆、カキ、ミカンなど、いずれも12個ずつを祝い込む。そのあと桶に新しいシメ飾りを巻き付けて床や神棚におまつりし、サカキ、シダ、ユズリハなど供えて、新しい年の幸運、無病息災など年神様にお願いする。
 1月11日は「年桶おろし」と名づけられた日。桶の中から小モチを取り出して、お雑煮をつくり、年神様にお供えしたあと家族みんなで食べる。そうすれば、その年は丈夫に過ごせるという。同月14日か、15日に行われる地域のトンドの日には桶に入れていた鏡モチをトンドの火で焼き、家に持ち帰ってカキモチを作る。このカキモチは、その年の一番はじめに雷の鳴った日に焼いて食べると年内は落雷など雷の被害を受けないと言い伝えられている。
 千種町の上山明前教育長から届いた年桶についてのお便りや、あちこちのお年寄りから聞いた話などを参考に想像もまじえて『年桶』にかかわる伝説をつづってみた。

 むかし、昔のこと。同郡内の、とある村里に欲深い男の人と親切な男の人が住んでいた。ある年の大晦日(おおみそか)の夕刻。大きくて重そうな桶を背負うた白髪の老人が村里にやって来た。
 老人は、まず最初、たまたま欲深い男の人に出会い「急に大切な所用が出来たので桶をしばらくの間、預かってもらえないでしょうか…」と丁重に頼み込んだ。欲の深い男の人は、もう直ぐお正月を迎えるというのに何がはいっているかわからんような桶を預かることは出来ないと思ってか、「そんなもん、よう預からん。忙しうて困っている時や、さっさと立ち去れ」と、けんもほろろに断った。
 老人は次に直ぐ近くの親切な男の人の家を訪ね「桶が重とうて困っているんです。急ぎの用事が出来たので正月3日まで、この桶を預かって下さいませんか…」と深ぷかと頭をさげて頼んだ。親切な男の人は、こんな年の瀬に大きな桶を背負って用事をするのは大変だろうと思い「預かってあげましょう、何も遠慮することはありませんよ…」と笑顔で答えて桶を預かった。老人は大よろこびで「もしも、正月3日までに私が桶を取りに来なかったら思いのまま処分して下さい」と言い残し、急ぎ足で村里を出ていった。
 親切な男の人は、老人から預かった桶を納戸の奥まで持ち込み、大切に保管した。正月3日が過ぎても老人が桶を取りにこないので、とうとう同月11日の早朝、思い切って桶のフタを開けてみた。ところが、なんとおどろいたことに桶の中には大判、小判が、どっさりはいっていた。親切な男の人は、いっぺんに大金持ちになり、それ以来、幸せいっぱいの暮らしをしたとのこと。そこで、幸運を呼ぶという『年桶』の行事が始まったと言い伝えられている。

     (2003年1月掲載:山崎文化協会事務局)

(57)佐治谷ばやし『だんご』

「だんご」

 兵庫県教育委員会から昭和47年3月に発行された西播奥地民俗資料緊急調査報告「千種」には、宍粟市千種町内の人たちによって語り継がれてきた伝説や民話などが、たくさん掲載されている。
 今度の「郷土の伝説と民話」(57)が続載されるサンホール二ユースは、うだるような暑さが予想される真夏の7月上旬、宍粟市内の各家庭に配布されるとのことだったので、「ちょっぴり暑さを忘れて笑いながら読んでいただけたら…」と思い、前記報告書の中から面白そうな『だんご(団子)』という昔話を選んで取材した。
 梅雨晴れの日。同市山崎町の中心部を車に乗って出発。県道、宍粟-下徳久線と若桜-下三河線を通り、およそ40分かかって千種町へ。同町内は野も山も美しい“緑”でいっぱい。さっそく各地を巡回して風景写真を撮影した。
 このあと、同町岩野辺在住の地元の歴史に大変詳しい旧千種町の元教育長・上山明さん宅を訪問。応接室で上山さんから『だんご』のことなど同町内の昔話について、いろいろのことを聴かせていただいた。
 『だんご』の話は、むかし同町と因幡(鳥取県東南部)の人たちとの交流が盛んだったころ因幡の“佐治谷?”の人たちが千種町へ来訪。その時、話をされたことを同町の人たちによって語り継がれた昔話らしい。
 前記の報告書『千種』に掲載されている『だんご』の内容と上山さんから、お聴きした話を参考に想像もまじえて『だんご』の昔話をつづってみた。

語り継がれた伝説や民話の多い千種町

 むかし、昔のこと。山深い村里に仲のよい夫婦が居住。主人は大工仕事、妻女は家事に精を出していた。
 ある日、主人が、ちょっと離れた街へ住宅を建築する仕事に出かけた。主人は働きものとあって早朝から汗だくだくで作業に励み、午後3時ごろ、やっと仕事が一段落ついたところで休憩した。
 その時、建築依頼主の奥さんから手づくりしたという おやつ をいただいた。この“おやつ”-ホッペタが、とびだすほどうまかった。大工さんは、いままで食べたことのないものだったので、サービスしてもらった奥さんに「これは、なんという食べものですか…」と尋ねたところ「お米を原料に作った『だんご』ですよ…」とのことだった。
 主人は『だんご』のおいしかったことに感激。早く家に帰って女房に『だんご』を作ってもらおうと思い、名称を忘れないよう『だんご』『だんご』と繰り返し言いながら家路を急いだ。
 帰宅途中の狭い山道にさしかかったところ落差80㌢位の土手があり、この土手を“ヒョイトセェ…”と言って跳びおりた。そのとたん『だんご』の言葉を忘れてしまい、ここからは“ヒヨイトセェ…”“ヒョイトセェ…”と言いながら歩き続けた。
 やっと家に帰り着き、玄関にはいると同時に「帰ってきたぞ…」と声をかけた。妻女は直ぐに顔を見せ「お帰りなさい。きょうも仕事が大変だったことでしょう。早くお休みください…」と、ニッコリ笑って主人を迎えた。すると主人が「すまんが“ヒョイトセェ…”を作ってくれんか…。きょう仕事場で“おやつ”によばれたが、ものすごう、うまかったんや…」と頭をさげて頼んだ。妻女は「“ヒョイトセェ…”とは、なんですか。私は、そんな食べ物、知らんので作れません…」と返事。この言葉にカチンときた主人が「“ヒヨイトセェ…”は、きょう仕事先で食べたところや…。知らんので作れんとは言わせんぞ…」と大声でどなった。しかし、妻女は再び「知らん食べ物、作れるはずがないでしょう…」と言い返した。
 癇(かん)をたてた主人は、いつにもなく激怒。ゲンコツで思い切り妻女の頭をぶんなぐった。妻女は、びっくり仰天。「痛い、痛い…」と、叫びながら両手で頭をかかえて、うずくまってしまった。
 しばらく沈黙の時が続いたが、なんとか妻女が立ちあがり「私の頭をよく見なはれ、こんな大きな“タンコブ”ができてます。どうしてくれるんですか…」と、どなり返した。“タンコブ”という言葉を聞いた途端、主人は「そうや、そうや、仕事場でいただいたのは“ヒョイトセェ…”じゃなく『だんご』だったんや…」と気がついた。
 主人は「わしが間違っていた。『だんご』だったんや。“ダンゴ”のような“タンコブ”を見て思い出した…」と妻女に暴力をふるったことを、ひら謝り。ど下座して深く頭をさげ「わしが悪かった。すまんことをした。こらえてくれ…」と何度も言い続けた。
 やっと仲なおりした夫婦は、同夜、力を合わせて米の粉を作り、これを水でこねて小さくまるめたあと蒸して『だんご』をこしらえ黄粉(きなこ)をまぶして「うまい…」「おいしい…」と笑顔で話しあいながら夜の更けるのを忘れて食べ続けたとか…。
   (2006年7月掲載:宍粟市山崎文化協会事務局)