(65)菅野地区『地蔵の話』

 昭和59年。当時、宍粟郡山崎町鹿沢にあった山崎農業改良普及所が発行した『すがの』と題する小冊子を読んだ。
 この冊子には現在の宍粟市山崎町菅野地区の″昔のくらし″などが記載されていたが、その中に″いいづたえ″という項日があり「宮の谷と若西神社」「時朝五郎左衛門顕彰記」「切窓峠で狐(きつね)につままれた話と送り狼(おおかみ)」「地蔵の話」「春安の耳の神さん」「木谷市場に残る神様-乳神様」「市場の鬼面さん」の7つの伝説の掲載もあった。このうち「若西神社」「乳神様」「鬼面さん」の3つの言い伝えは、すでに、この「郷土の伝説と民話」のシリーズに掲載ずみだったので今回は『地蔵の話』という伝説を取材することにした。
 さっそく長い間、仲よくしていただいている菅野地区高下在住の元山崎町助役の長田一三さんに電話。『地蔵の話』の詳しい内容について尋ねたところ、長田さんから「あなたの言われる伝説について、詳しく調べたあと連絡します」との有難い返事をいただいた。
 その後、長田さんは菅野地区在住の歴史に詳しい識者や古老の方々20名に伝説の話を聞くなど積極的な調査をすすめてくださった。
 数日後、長田さんから「伝説の地蔵さんが、おまつりしてある現場へ案内しますから来てください」との電話があり、よろこんで取材に出かけることにした。
 「梅雨の晴間」といえる好天候の日の朝。宍粟市山崎町中心部を車で出発。山崎、佐用両町をつなぐ県道を西方へ約4キロ走って長田一三さん宅を訪間。長田さんに車に同乗してもらい、再び県道をさらに西方向へ約3キロ進み、美しい新線の山々に囲まれた同地区の″青木″に着いた。そこで地元の谷林義明さん(77)と谷林滋夫さん(79)にお会いし、待望のお地蔵さんが、おまつりしてある現場へ。
 県道ぞいの谷川にかかる小さな橋を渡り、昔からある幅2メートルほどの古道にはいると、すぐ近くの山すそに伝説にいう石づくりの、お地蔵さんが、おまつりしてあった。
 地蔵さんは高さ60センチほどの石積みの上にたてられており、大きさは高さ65センチ、幅27センチ。中央に、ほほえましい子供の顔。その横に正徳3年の文字が刻みこまれていた。この素晴らしい子供の笑顔が『童蔵』と言われるようになったのではなかろうかー。
 お地蔵さんの前には、お水ときれいな花がお供えしてあった。すぐ近くに居住されている谷林美代子さん(83)が、ずっーと前からお地蔵さんの手入れやお供えをかかさず続けておられると聞き感心した。
 お地蔵さんの直ぐ横手には椿の古木とカシワの大木が聳(そび)えていた。
 『すがの』の小冊子の中の『いいつたえ』の項日の「地蔵の話」には、
 『青木集落に「堀田」という所があります。ここの道端に今も無名の童蔵(年号、正徳3年3月24日)があります。この童蔵にまつわる話です。
 童蔵のある道を女の人が歩いていました。この当時はとても道がせまかったのです。
 この道のむこうから武士がやってきました。ぶつからないようにと思い、女の人はよけて通ったのですが、通りすがりぎわに武士の腰の物にふれてしまい、打ち首になって死んでしまいました。堀田の衆は、この女の人を気の毒に思い、墓をほってうめてやりました。
 その夜のことです。赤ん坊の泣き声がどこからか聞こえてきます。村人は不審に思いさがしたところ、童蔵の左側に植わっている椿の根元に赤ん坊が根をくわえて、椿の液をすって生きていました。
 私達は子供のころに、「椿を切ると血が出る、椿の枝を切るな、さわるな」とよく言われたものです。』=原文のまま転載=と、記載されている。
 この内容について長田さんと両谷林さんと立ち話。「武士の刀で斬り殺された女の人の遺体を″かわいそうに…″と、近在の人たちが力を合わせて埋葬されたことはよくわかる。」「しかし、その夜、赤ん坊が椿の根元で椿の液をすって生きていたということは、あり得ないことではなかろうかー」「殺された女の人が妊娠していたのかなー。」「赤ん坊は近所の人に助けられ、立派な女性に成長したのか、そのまま亡くなったのかー。わからんなあー。」など話し合った。
 このお地蔵さんは、いまから295年前の江戸時代、正徳3年(1713年)に作られた古いものであり『童蔵』といわれるほど可愛い子供の笑顔が刻みこまれているのは珍らしく一見の価値はありそう。
   (平成20年7月:宍粟市山崎文化協会事務局)

伝説のお地蔵さん