(67)波賀町谷『淡嶋神社と庚仲塚』

庚 伸 塚

 あした、出稿の締め切り日なのであわてて原稿を書いている。
 先般、宍粟市山崎町にある宍粟防災センターで同市文化協会の理事会が開かれたとき、会議の終わるのを待って、同市波賀町文化協会長の大成みちよさんにお会いして「宍粟市山崎文化会館発行の″サンホールやまさきニュース″に連載されている″郷土の伝説と民話″に掲載したいのですが、いままでにこのニュースに記載された波賀町内の『チャンチャコ踊り』など8件の記事以外に同町内で何か昔からの言い伝えがありませんか」と、お尋ねしたところ、大成会長から「直ぐ波賀町内の古老の方々に伝説のことを聞いたうえ、ご連絡いたします」との、うれしい返事。しばらくしてから大成会長から「波賀町谷地区に伝説があるとのことです」との電話があった。「よかったー」と思い、さっそく取材することにした。
 シト、シト、小雨の降る日、宍粟市山崎町中心部を車に乗って出発。国道29号線を約20㌔北進し波賀町小野の大成文化協会長宅を訪問。会長に案内していただいて伝説のある同町谷地区へ向かった。国道をしばらく南へ走り揖保川の上流、引原川に架かる″谷橋″を西方から東側に渡ると同町谷地区へ着いた。
 同地区では自治会長の森本都規夫さん、地元のことに詳しい大島弘さんにお出会いし、さっそくお二人の案内で昔の話をよく覚えておられる同地区の大島ソウさん宅を訪間。ソウさんから淡嶋神社のことなど同地区で昔から語り継がれている話を聞かせていただいた。ソウさんは90歳。昔の話にはなかなか詳しく、しっかりした話ぶりだった。このあと同家の美子さんの先導で伝説の地へ。道路ばたに建っている″右まがり・左あわしま″と刻まれた石の道標のあるところから坂道と石段を登ると山すそに淡嶋神社(あわしまじんじゃ)と、その近くに庚伸塚(こうしんづか)があった。神社は木造五坪ほどの小じんまりしたお宮で、美子さんらのお世話で、よく整理されていた。庚伸塚は高さ1m60cm、幅55cmの石碑だった。
 森本自治会長、大島の弘さん、ソウさん、美子さんから聞かせていただいた話と波賀町教育委員会から平成3年に発行された″波賀町ふるさとの文化財″はじめ関係書籍に記載された内容を参考に想像も混えて淡嶋神社、庚伸塚の伝説をつづってみた。
 淡嶋神社には主神の少彦名命(すくなひこなのみこと)と二神がおまつりされている。主神は″医療″の神様と伝えられており、とくに婦人の病気の平癒(へいゆ)、安産、子授かり、長命などに霊験があるとかー。神社におまいりしたとき身に付けている″かんざし″や″赤い布きれに自分の名前を書いたもの”をお供えすると、いっそうのご利益があると伝えられている。ソウさんは「昔、なかなか治らない婦人病にかかった人が淡鴫神社におまいりしたところ、まもなく全治した」との話を聞いておりますと話されていた。
 庚伸さまは、いろいろの悪霊から身を守ってくださると言われている。谷地区の庚伸塚については、″波賀町ふるさとの文化財″の中には『庚伸信仰は、人の身体の中に三尸(さんし)の虫がいて庚伸の夜睡眠中に抜け出し、天に上がって天帝にその人の罪科を報告するといわれ、庚伸の夜は眠らずに修業したと伝えられている。三尸の虫とは上尸は人の頭に居て目を悪くし顔に皺を作り、髪の色を白くする。中尸は腸の中に居て五臓を損なわし、飲食を好む。下尸は足に居て命を奪い精を悩ますといわれる。しかし庚伸の夜、徹夜して祈れば災い転じて福となるといわれる』=原文のまま=と記載されている。
 ある辞典に波賀町谷について「揖保川支流引原川下流域。山々に囲まれた渓谷で古くから因幡街道の要所にあたり、豊富な谷川の水を利用して耕地が広がり、早くから人々が集落を営んでいた。明治24年の戸数は72。人口は379人…」などと記載されている。大島弘さんは「現在、淡嶋神社のすぐ近くを通っている幅1㍍余の道が昔の因幡街道だったのですよ…」と話されていた。
   (平成20年11月:宍粟市山崎文化協会事務局)

よく整理されている淡嶋神社