(56)斉木『馬竹物語』

「馬竹」といわれている竹薮

 宍粟市波賀町内で「美女と名馬にまつわる悲恋の伝説」が、“馬竹(うまたけ)物語”と名づけて語り継がれていることを聴き取材した。
 二日間にわたって降り続いた春雨が、やっと止んだ日。桜花欄漫の同市山崎町中心部を車で出発。国道29号線を北進して波賀町へ。同町在住の宍粟市文化協会・大成みちよ会長にお出会いし、伝説の現地、同町斉木の前地へ案内していただいた。
 同町上野の信号機のある交差点を左折。引原川に架かる波賀橋を渡って同町と同市千種町とを結ぶ国道429号線に入り、西へ3キロ余り行たところで前地に着いた。山崎町から所要時間は、およそ40分。
 前地の民家の並ぶ道端に、後記する伝説のハイライトとなる「美女と名馬が一緒に落ち込んで他界した」と言い伝えられる大きな井戸があった。井戸は土で埋められ、自然石を積みあげた2.3㍍四方の井戸の枠が残っているだけだったが、枠の内側には近所の人たちが“おなご竹”といっている細くて長い“メダケ”がぎっしり茂った薮になっていた。
 この現場では、地元のことに大変詳しい斉木地区在住の舟積勇さんと谷口美津夫さんのお二人が“馬竹物語”について、いろいろの話をしてくださった。
 宍粟市教育委員会の黒田一博教育次長、同スポーツ振興課の岡田博行課長はじめ地元の人たちから、いただいた“馬竹物語”のことを書いたプリントを総合。その内容を再録するような形になったが、それでも大成会長、舟積さん、谷口さんの3人からお聴きした話を参考に、ちょっぴり想像もまじえて“馬竹物語”の伝説をつづってみた。

 むかし、昔のこと。波賀町斉木地区一帯が「大原の里」と、いわれていた。そのころ村里に大きな宅地や田畑、山林を所有、家族だけではなく多くの男衆や女衆をおいて豪華な家に住む長者がいた。
 長者は学問があり算盤に優れ、琴や三味線、管楽を趣味とし、お酒の好きな風流な人で、村人たちの様々な世話もしていた。妻女は心やさしい働きものだった。
 この長者の家で、うれしいことが二つ続いた。その一つは妻女がマル、マル太った可愛い女の赤ちゃんを出産したこと。二つ目は乗馬用として飼育していた馬がオスの子馬を生んだこと。
 一家の人たちは大よろこび。女の子には「たよ」と名前をつけ、みんなが協力して大切に育て、読み、書き、計算を教えたので、近所では稀にみる容姿うるわしい教養のある娘に成長していった。オスの子馬は「青(あお)」と名づけ、家族が交替で、たゆまぬ世話を続けたかいあって、時の城主が欲しがるほどの名馬になった。
 「たよ」と「青」は、幼いころから、とくに仲がよく、「たよ」が「青」の鬣(たてがみ)や蹄(ひづめ)の手入れをしてやったり、好きな飼料を与えたり、一緒に村里の野山を駆けまわったり、楽しく幸福な暮らしを続けていた。美女も名馬も年頃になったころには、お互いに“恋心…?”が大きく芽生えたらしい。
 そのころ、地元の庄屋さんの息子と「たよ」との縁談が持ちあがっていた。「たよ」は大好きな両親や馬の「青」は、もちろんのこと、男衆や女衆とも別れて嫁ぐのがいやで、ゆううつな日々が続くようになった。
 しかし、父親の長者が新しい事業と取り組むため庄屋さんから多額の借金をしていたことなど、縁談を断わることができず、いやいやながら庄屋の息子さんと結婚することになった。
 結婚式の日が近づき、一家のものみんなが準備に忙しく働いているのを察知した馬の「青」は「たよ」と別れるのを悲しんで意気消沈。食べものもとらず馬小屋で佇(たたず)むだけだった。
 ある日のこと。「たよ」が家事のため井戸端で水汲みをしていたところ、突然馬の「青」がタテガミを乱し、ものすごい形相で、ひと声高くイナナキ。手綱を切って一目散に「たよ」に駆け寄り「たよ」に覆いかぶさるように跳びかかった。この弾みで「青」と「たよ」は一緒に深い井戸の中に落ち込み昇天した。いまでいう“心中…?”をしたらしい。あまり異様な出来ごとに家族の人たちは、びっくり仰天。悲嘆にくれた。後日、この井戸は土で埋められ「たよ」と「青」の霊を弔うため井戸に竹づくりの御幣を立て“馬姫様”といって祈り続けたという。
 その後、御幣の竹から芽が生え、これが増えて現在のような小ぢんまりした竹薮になり、地元の人たちは、この薮を“馬竹”と呼んでいるそうだ。
 この“馬竹”の竹を切ったり、折ったりすると必ず災いがあると伝えられ、そんなことをする人は全くないとのこと。
    (2006年5月掲載:宍粟市山崎文化協会事務局)