(33)波賀町『波賀城の名馬』

 波賀町の人たちは「波賀城の名馬」の伝説について、よくご存じだろうと思うが、宍粟郡内他町の伝説に興味を持っておられる人たちにも、この伝説をお知らせしたいと取材した。
 最高気温が30度を超えるカンカン照りの真夏日、波賀町上野、町役場内の同町教育委員会を訪ねた。岡田博行生涯学習課長にお会いして波賀城にまつわる名馬伝説のことなど、いろいろの話を聴き、平成8年、文化センター波賀が発刊した明石市在住の谷村禮三郎さん著による「波賀城ものがたり」の単行本をいただいた。
 このあと岡田課長に案内をお願いし、車で町役場から東南へ約1㌔、城山の頂上にある伝説の地、波賀城蹟へ。山の中腹に広場があり、正面には「波賀城蹟」と刻み込まれた石碑。右側にはカヤ茸きの管理母屋と便所棟。左側には波賀城蹟の説明掲示板が建っていた。
 広場から冠木門をくぐって歩道を通り木作りの階段を登ると城山の頂に着いた。山頂にはお城のような学習資料館が建ち、隣接地に全国でも最古式ともいわれる石垣が積みあげられていた。頂上から見下ろす付近一帯の眺めは素晴らしかった。
 岡田課長から聴いた話と「波賀城ものがたり」を参考に想像もまじえて「波賀城の名馬」の伝説をつづってみた。

 いまから740余年前、鎌倉時代中期の弘長元年(1261)のこと。波賀城主といわれる波賀七郎光節(みつとき)が、隼(はやぶさ)の如く駆けるという駿馬(しゅんめ)を飼っていた。城下の村人たちはこの馬を“千里の馬”と呼び、その駿足を称えていた。
 光節は京の都へのぼる時は必ず駿馬に乗って出かけ一日で所用をすませてお城へ帰っていた。その頃は考えられぬ素早い旅だったらしい。この駿馬のことが世間の大きな噂となり、とうとう亀山天皇のお耳にも達した。天皇は勅使をもって光節に対し「名馬を献上するよう」命じられた。光節は「愛する名馬を手放すことはできん」と再三の命(めい)をも聴き入れなかった。怒った勅使は、遂に六波羅の兵士を率いて名馬を召し上げるため波賀城へ押し寄せた。
 光節は、あわてて名馬をお城近くの山内の洞窟に隠し、勅使には「馬の行方がわからなくなった。どこかで死んでいるかも…」とウソをついた。勅使は怪しみながらも、やむなく帰途についた。お城から勅使や兵士の姿が見えなくなったのを確認した光節は、さっそく洞窟にかけつけ、穴の中から馬を連れ出した。ところが、暗所から明るいところに出たうれしさからか、名馬はいつにもなく声高らかに、いなないた。この、いななきを聞いた勅使は「いまないたのは名馬ではないかー。お城に引き返して馬を探せ」「光節も捕まえろ」と随行の兵士にきびしく命令した。
 波賀城の城兵たちは城主と名馬を守るため命がけで戦ったが多勢に 無勢とあって敗戦。40人が自決した。城兵を失った光節は命からがら逃げ老杉の腐った洞穴に隠れた。しかし、逃れる途中、顔や腕などに山ヒルが吸い付き、これを叩き落としたときの血のあとが地面に点々と連らなって残っていたため六波羅の兵士に直ぐに洞穴を見つけられ捕まってしまった。名馬は険しい山の中を走り抜け、大きな岩を飛び越えて逃げたが、誤って谷川の深い渕に落ち込んで死んだという。

 光節は天皇の命に逆らったため違勅の罪にとわれ城山のふもとにある小さな丘で斬殺されたとのこと。村人たちは城主の死を悲しみ、その霊を地元の宝殿神社に合祈したと伝えられている。
      (2002年7月掲載:山崎文化協会事務局)

波賀城史蹟公園