(54)神谷『子守地蔵さん』

木づくりの子守地蔵さん

 「新春にふさわしい楽しい伝説があるかなあ…」と思い、いつもながら宍粟市内あちこちの高齢者の方々に「何か楽しい伝説を聞かれたことありませんか…」と尋ねたり、その筋の関係書物を読んだりしていた。すると、いまから46年前の昭和35年、当時の宍粟郷土研究会が発行した会報の中に山崎町神谷に在住だった故・栗山宗知さんが書かれた「河東の伝説」と題する記事の中の一項目に同町神谷地区で、地元の子どもたちと楽しく遊ぶ「子守地蔵さん」のことが掲載されているのを知り、さっそく取材をはじめた。
 好天候の日を選んで宍粟市山崎町神谷の老人会長・栗山儀秋さん宅を訪問。伝説の現地へ案内していただいた。
 同地区の東方にそびえ立つ森谷山のふもと、通称″カマツチ″と呼ばれているところに、小さいが真新しい立派なお堂があり、その中に石仏と並んで「子守地蔵さん」が、おまつりしてあつた。
 お地蔵さんは、木づくりの体長およそ50㌢、胴まわり40㌢ほど。丸太のような可愛いお姿だった。栗山さんは「昔からのお堂が老朽化したので平成17年秋、専門の大工さんにお願いして新しいお堂に改修してもらいました。お地蔵さんの原材はクリの木。作った人は、はっきりしていません…」と話して下さった。
栗山さんのほか神谷地区在住の元自治会長・立花正太郎さん、山崎郷土研究会長・森本一二さんとも会い、昔話など聴かせていただいた。
 3人の方々から聴いた話と前記会報に掲載の記事を参考に、
想像もまじえて『子守地蔵さん』の伝説をつづってみた。

 むかし。昔といっても、いまから180年ほど前の江戸時代後期のこと。当時の神谷村の十歳前後の子どもたちが、森谷山のすそにある広場に集合。直ぐ近くの地蔵堂におまつりしてある木づくりの小さくて軽い、お地蔵さんを持ち出し、ワイ・ワイ、ガヤ・ガヤ。時には大きな歓声をあげながら、お地蔵さんを放り投げたり、引こづったり、お尻に敷いたり。にぎやかに遊んでいた。この遊びを見た近所のおじいさんが、驚いて「こりゃ!。 何をしとるんじゃ!。勿体(もったい)ないことをするな!。お地蔵さんの罰が当たるぞ!。止めんかい…」と、大きな声をはりあげて奴鳴(どな)りつけた。子どもたちは、びっくり仰天。 お地蔵さんを広場に放ったらかしたまま一目散に逃げた。
 おじいさんは、子どもたちの遊びで汚れたお地蔵さんを、きれいに洗ったあと元のお堂の中に返し「無茶な遊びをした子どもたちを、お許し下さい…」と、心を込めてお祈りした。
 ところが、その夜、子どもたちを叱ったおじいさんの夢の中に、お地蔵さんが現われ「折角、子どもたちと楽しく遊んでいたのに叱るとはけしからん…」と、小言を述べられた。おじいさんは恐縮して目を覚ましたとか。
 数日後、おじいさんに叱られたのにもかかわらず、また同じ広場で子どもたちが、お地蔵さんと無我夢中で遊んでいた。こんどは通りがかりのおじさんが見つけ、前のおじいさんと同様に 「おまえら!大切なお地蔵さんを遊びに使うのはけしからん!止めなさい…」と、叱りつけた。
 しかし、その夜、このおじさんも夢の中に、お地蔵さんが姿を見せ「わたしと子どもたちとの遊びの邪魔をしないでくれ…」との、お言葉を聴いた。
 この二人の夢の話が、たちまち村内に広がり、おとなたちは寄りより相談。「子どもたちが、お地蔵さんと遊んでいても怒らんようにしよう…」と、申し合わせた。このことを知った子どもたちは大喜び。それからは、ちっちゃな幼児も遊びに加わって、
思う存分お地蔵さんとの遊びを楽しんだという。そのころから村の人たちは、このお地蔵さんを『子守地蔵さん』と、言うようになったそうだ。
 子どもたちのお地蔵さん遊びは明治中期まで続いていたらしいが、なぜか、その後は、この遊びがなくなったという。
 古い記録から推測すると江戸時代後期の神谷村の規模は戸数40~50戸、人口250人前後、田畑およそ50町。農家がほとんどで、おとなは早朝から深夜まで農作業やワラ製品づくりなど内職にも精を出していた。また、子どもは同村内にあった寺子屋で読み・書き・そろばんを習い。家では農作業、家畜の飼育、炊事の手伝いや子守などしていたようだ。休みの日には鬼ごっこ、コマまわし、お手玉、あやとりなどして遊んでいたが、なんといっても近在にはない、お地蔵さんとの遊びに人気があったとか…。

 神谷村は明治22年、河東村神谷に、昭和30年、山崎町神谷。平成17年4月、宍粟市山崎町神谷となった。同年3月末の戸数は96戸、人口は336人(同市山崎市民局調べ)。
      (2006年1月掲載:山崎文化協会事務局)