山崎町菅野地区、青木、字勝地(かちじ)の若西神社に関わる伝説を取材するため地元の歴史に詳わしい宍粟郡文化協会連絡協議会の河本雅視事務局長宅を訪問。古くから語り継がれている、いろいろの話を聴いたあと同神社へ案内していただいた。
同町青木の県道沿いに建つ町立菅野小学校から南西方向へ、およそ500㍍離れた小丘のスギやヒノキの巨木が林立する森の中に同神社があった。古めかしい本殿の正面には地元の青木老人クラブ“青寿会”の人たちが力を合わせて手作りされた大きなシメ縄が飾り付けられ、社頭には魔除けのため獅子に似た獣の形をした狛犬一対が据え置かれていた。この狛犬は、いまから190余年前の文化7年(1810年)に建立されており、一対のうち片方の狛犬には頭部から角が生えている珍しいものだった。
本殿の直ぐ近くには約2㍍四方を玉垣で囲んだ石積みがあり、その中に伝説の「御腰掛石」と「馬の蹄石(ひづめいし)」の二つの神石が、おまつりしてあった。腰掛石は径、約50㌢。蹄石は径約20㌢。中央に縦9㌢、横8㌢ほどの馬蹄跡が残っていた。
河本事務局長から聴いた話と同町老人クラブ連合会発行の冊子「いいつたえ」を参考に想像もまじえて同神社に関わる伝説をつづってみた。
遠い、遠い昔。人を食う巨大な怪物、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治された勇猛果敢な災厄除去の神様といわれる須佐之男命(すさのおのみこと)が若かったころのこと。暴力をふるうなど、いたずらが過ぎたため親神様から「追放する」との宣言を受けられた。命は直ちに旅立たれ、追手から逃れてやっとのことで播磨の国の北西部に当たる山の中(現在の山崎町青木付近)まで辿り着かれた。その時、道端の石に腰をかけられ『わが心、清清(すがすが)し』とおっしゃった。この言葉から、この里を「清野(すがの)」と呼ぶようになった。しかし後年、近在に「清野(せいの)」という村里があったので「清(すが)」の一字を改めて現在の「菅野(すがの)」になったそうだ。
命(みこと)は、しばらくの間、清野(すがの)の里を巡回なさっていたが事情があって西をさして遷幸(せんこう)された。村里の人たちは、あとになってから命が「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の弟神であることを伝え知り、不敬を恐れて山の中で腰をおかけになった石をご神体として崇敬。また、若い命(みこと)が西をさして遷幸されたというので若西神社と名づけた産土(うぶすな)神としておまつりしたとのこと。
ご神体の「神石」は当初、清野(すがの)の北山という地に安置されていた。その山の近くに″ちよ″という色白で目のぱっちりした女性が居住。″ちよ″は神様を敬う心が厚く、毎日といってよいほど、ご神石へのおまいりを続けていた。ある夜のこと。“ちよ”の夢路に命(みこと)が現われ『川の南に勝地があり、われは彼処(かのところ)へ行くぞ…』とのご神託があった。それから三日後の真夜中、山野鳴動して神石・神馬ともに一夜のうちに川南の小丘、勝地へ遷座された。村里の人たちは測り知ることのできぬ神威の偉大さに畏敬(いけい)。そこに社殿を建てておまつりしたのが現在の若西神社の起こりだといわれる。
遷座されたとき路傍の石に神馬の蹄(ひづめ)の跡が残っていたので命が山の中で腰かけられた石と共に神石として同神社本殿近くの境内におまつりしているという。
同神社の秋祭りは例年10月吉日に催され、地元の青木獅子舞保存会による江戸時代から続いている伝統の獅子舞いや高下子ども会のみこし練りと纏(まとい)の舞いの奉納などがあってにぎわう。ここの獅子舞いは出雲神楽の影響を受けたもので、変化に富んだ12種類の舞が継承されており、同町の無形文化財の一つに数えられている。
(2002年5月掲載:山崎文化協会事務局)