都多の里。山崎町上ノ上、伊沢川の上流に架かっている「平野橋」近くの県道から狭い山道を50㍍ほど登ったところに順礼堂・観音寺が建っている。大きな杉と竹の林に囲まれた小じんまりしたお堂で、堂内の奥正面には体長20~40㌢くらいの観音像三十三体が、ずらり安置されていた。
このお堂には一人のお坊さんの根性と努力をたたえる話が語り継がれているというので、地元の矢野一郎さんに世話をお願いして堂内を見せていただいた。その時、矢野さんからお坊さんの話を聞き、同地区の矢野寅之助さん著作による「蔦澤の伝説と民話集」を参考に、想像もまじえて「順礼堂の観音さま像」の伝説をつづってみた。
昔のこと。諸国巡礼中の若いお坊さんが、険しい山の中にある都多の里の順礼堂に立ち寄った。ところが、お堂の中は荒れ果て、仏間はいまにも壊れそうな状態だった。お坊さんは「このまま放っておくわけにはいかん」と、お堂の中を整理して観音さまの像三十三体をおまつりすることを立願した。しかし、修業中のお坊さんのこととて、お金も力量もなく、直ぐにこれを実行するわけにはいかなかった。
そこで、お坊さんは全国各地を巡回して托鉢(たくはつ)。いただいたお金を溜め、毎年一体ずつ観音さまの像をお堂の仏間におまつりする目標をたてた。さっそく播磨を皮切りに全国各地へ。夏は酷暑の中、汗だくだくで、冬は凍えつきそうな酷寒の中、身を震わせながら…、体力の続く限り休まず托鉢を続け、お金が溜ると京の都で観音さまの像を買った。像は、いつも真っ白い大きな綿布に包み、背負ったり、抱きかかえて都多の里に帰り、お堂の仏間に安置した。
お坊さんは、毎年かかさず観音さまの像一体ずつ。三十三年もの長い期間をかけ、やっとお堂の仏間に三十三体の像を安置、見事に立願を運成した。
里人たちは当初、お坊さんの念願を聞き「とてもじゃないが、実現は難しいだろう。」と話し合っていただけに、お坊さんが立願を果たしたときは、みんな驚いたり、喜んだり。お坊さんの根性と努力、信仰心を大いにたたえたという。
(2001年1月掲載)