(18)一宮町能倉 『ぬくゐ川とお酒』

ぬくゐ川の源泉付近

 新春にふさわしい明るい伝説がないものかと捜していたら一宮町能倉に、お正月には、かかせない〝お酒″にまつわる『ぬくゐ川とお酒の発見』の話と、隣の同町上野田にちょっぴり心あたたまる『乳十郎さま』の話が語り継がれていた。
 さっそく同町伊和、元同町文化協会長の中村長吉さんと同町上野田、庭田神社宮司の大住綾夫さんの二人に伝説地への案内をお願いして話を聴き「一宮町史」を参考に想像もまじえて二つの伝説をつづってみた。
 「ぬくゐ川」の源泉は能倉の庭田神社の裏参道にほど近いところにあり、三角形の石積みの頂点に当たるところから泉が湧き出していた。ここには「宮居の泉」の石碑が建てられ、その前に並ぶ玉垣に注連(しめ)飾りが張られていた。源泉の溜(たま)り水から幅1㍍くらいの澄みきった川の流れになっており、地域の人たちは野菜洗いなど生活用水としての恩恵を受けている。この川は湧き水が流れているため冬でも温かいので「ぬくゐ川」と名づけられたという。

 むかし、伊和大神が軍勢を率いて播磨の国を巡歴。地域の人たちの幸福と平和を願う国造りをされた。その途中、同町能倉の美しい森の中を流れる「ぬくゐ川」の辺りで休息をとられた。お昼に近いころだったので、供の兵士たちは持ち歩いていた食糧の「干飯(ほしいい)」を土器に入れ源泉の溜り水や流れに浸して、柔らかくなるのを待った。(注=「干飯」は、ご飯を干して乾燥させ貯えておく食品。古くから軍用として作られることが多く、水に浸して、柔らかくなったものを食べた)
 この目は暖かく心地よい絶好の日和(ひより)。兵士たちは、あちこち数人ずつが集まって古里のことなど語り合っていたが、長い巡歴の疲れもあってか、いつの間にかグッスリ眠ってしまった。日暮れになって、やっと兵士たちが目を覚まし、水に浸してやわらかくなった「干飯」を食べ始めた。長い間「干飯」を温かい水に浸していたためか発酵。食事がすすむうちに、みんないい気持になり、とっぶり陽が落ちるころには大神を囲み〝歌えや踊れ″の大宴会。つらかった巡歴の疲れをふっとばしたという。この「干飯」の発酵が〝お酒の発見〝だと伝えられている。


上野田の『乳十郎さま』

 「ぬくゐ川」から、およそ500㍍離れた上野田の通称、大迫堂垣内に地蔵堂があり、お堂の中にお薬師さんとお地蔵さんがまつられている。ここのお地蔵さんを地元の人たちは『乳十郎さま』と呼んで親しんでいる。地蔵堂の横にはびっくりするほど大きな直径2㍍近いヒノキの伐(き)り株が残っていた。

 むかし、この地方一帯が大飢饉に見舞われた。農作物はさっぱり実らず、だれもが食べるのに、ことかく日が多かった。このため、あかちゃんを育てる母親たちのお乳の出が悪く、わが子のやせ細るのを悲しむばかり。困りはてた、ある母親が上野田の大きなヒノキの下にある地蔵堂を訪ね、お地蔵さんに「お乳がたくさん出ますように…」と心を込めてお願いした。すると、その日から、あふれるほど十分お乳が出るようになり、あかちゃんは元気をとりもどした。母親は小おどりして喜び、お礼に白布で乳房の型をつくり、お地蔵さんの首にかけた。それ以来、お地蔵さんを『乳十郎さま』とあがめ、乳の出のよくない母親のおまいりが絶えなかったと伝えられている。
           (2000年1月掲載)

乳十郎さま