「西播磨文化」第43号が発行されました。

西播磨文化 No.43

宍粟市文化協会前会長、福岡久蔵氏の「ともしびの賞」受賞の紹介記事。

宍粟市文化協会の活動紹介:今回の担当は波賀文化協会です。

また、前号より始まった「郷土の文化人」コーナー(揖保川水系)は宍粟市文化協会(山崎文化協会)から「福原謙七」を掲載。執筆は「やまさき文化」No.38で同氏を紹介いただいた鎌田裕明様にお願いしました。

2021年3月8日 | カテゴリー : お知らせ | 投稿者 : 事務局M

「第41回春の芸能祭」の開催中止

掲題、毎年御出演の皆様からのご意見、そして現段階の新型コロナ感染拡大状況を鑑み、令和3年5月16日の開催は中止させていただくこととなりました。何卒、ご理解賜りますようお願いいたします。

(64)千種町『鉈取淵(なたとりぶち)』

伝説の『鉈取淵』

 こんどの「サンホールやまさきニュース」の「郷土の伝説と民話」のシリーズには、宍粟市千種町内で語り継がれている伝説を掲載したいと思って準備をすすめていたところ「同町の奥地に“鉈取淵”という言い伝えがありますよ…」との話を間き、取材することにした。
 さっそく、同町内での伝説取材のとき、いつも大変お世話になっている同町・元教育長の上山明さんに電話。伝説の現場への案内をお願いした。上山さんから「よろしい。案内しましよう…」との、うれしい返事があった。
 激しい降雪のあった翌日。とても寒い日だったが、同市山崎町の中心部を車に乗って出発。道路の凍結を心配しながら千種町へ。同町内では同市千種市民局で上山さんにお出会いし、短時間だったが話し合いをしたあと、伝説の現場へ案内していただいた。
 同市民局から同町と鳥取県をつなぐ県道を7キロほど北進した同町河呂地区の谷川に“鉈取淵”があった。道路ぱたに車を止め、積雪50センチほどの広場の中を滑ったり、転んだりしながら、およそ50メートル歩き、やっと伝説の現場に着いた。
 “鉈取淵” は、同町を縦貫して流れる千種川の源流近くの川幅およそ7メートルの谷川にあり、延長17メートルほどの流水のよどみが“鉈取淵” だった。淵の水深は推定2メートルくらい。付近一帯は野も山も厚い雪におおわれて美しい雪景色を描きだしていた。
 上山さんからお聞きした話と、昭和47年発行の兵庫県教育委員会による「西播奥地民俗資料緊急調査報告“千種”」に掲載されている“鉈取淵”の項を参考に想像をたくましくして “鉈取淵” の伝説をつづってみた。

 むかし、昔のこと“千草の里”(現在の宍粟市千種町)に優しい娘さんと実父、継母(ままはは)の3人暮らしの一家があった。娘さんは18歳。当時、結婚適齢期といわれた「年ごろ」だったが、結婚のことよりも親を助けて働くことに懸命だった。炊事、洗濯、掃除はもちろんのこと、田畑での農作物づくり、山仕事などにも精を出しており、近所では「よく働く、いい娘さんだ…」と評判になっていた。
 ある日のこと、自宅から少し離れた山へ出かけ、鉈=薪などを割るのに用いる、短く厚く幅の広い刃物(広辞苑より)で若木を切って薪づくりに汗を流していたが、ちょっぴり疲れたので、山すそ近くを流れる谷川の土手でひと休み。このとき身近なところに置いていた“なた”がなぜだかスルスル土手をすべり、川の淵に落ち込んでしまった。
 そのころの淵は水深が3メートル以上もあり、娘さんが “なた” を拾おうと懸命に努力したが “なた” を見つけることが出来なかった。辛い思いをしながら帰宅。継母に「なたを谷川の淵に落としてしまい、あちこち探しましたが見つかりませんでした」と話をした。ところが、継母は「娘が山仕事をするのがいやだと思って “なた” を淵に捨てたんだろう…」と誤解し「なに言ってるの  “なた” を捨てるほど仕事をするのがいやなんだろう。ばかやろう…」と怒鳴りつけた。
 娘さんは、継母の言葉にびっくり。再度 “なた” がなくなった淵へ行き、長時間にわたって “なた” を探していたが、ひどい疲れがでてしまったためか、あやまって淵の深みに落ち水死してしまった。父親は娘さんの死が悔しくて涙を流し続け、近所の人たちの同情をあつめた。
 その後、なんだか訳がわからないが、誰彼言うことなく、この淵の近くを “なた” を持って通ると “なた” が淵の中に吸い込まれて行方不明になり、淵底から「 “なた” をかえして、かえして。その “なた” ではない…」との声が聞こえたとか…。

 前記の県の教育委員会の“千種” “鉈取淵”の項には、娘さんが水死したあとのことについて『その後、この淵の周辺で鉈を手放すと、鉈は生物のように淵にすべり込み、やがて「鉈をかえせ、鉈をかえしてくれ」と訴え、次に「違う、違う、これではない」と泣き叫ぶ声が聞こえると伝えられ、今もここでは鉈を手放すことを禁じている』(原文のまま)と記載されている。
   (平成20年3月:宍粟市山崎町文化協会事務局)

(49)西鹿沢『いたずらキツネ』

いたずらキツネが出没していたという西鹿沢の通町付近

 キツネにまつわる伝説は各地にあるが、山崎町西鹿沢でも「いたずらキツネ」の話が語り継がれていた。
 同町教育委員会の大谷司郎社会教育課長からお借りした山崎郷土研究会発行の″山崎郷土会報″の綴りを読んでいたところ、昭和51年発行の会報No.48号に同研究会の会長だった故・堀口春夫さんが書かれた「民話小噺(こばなし)」と題する項目の中に
「いたずらキツネ」のことが掲載されていたので、この話を知った。
 江戸時代の話だったので当時の山崎藩のことについて大変詳しい同町鹿沢の横井時成さんを訪ね、お話を聞いたり資料をいただいたりした。このあと堀口さんが書かれた山崎郷土会報に掲載された記事を再録するような形になったが、これに、ちょっぴり想像もまじえて「いたずらキツネ」の話をつづってみた。

 いまから300余年前の江戸時代初、中期のころ、同町西鹿沢の南と北を結ぶ道路の一つ、通町(とおりちょう)付近で、地元の人たちをびっくりさせるような出来ごとが相次いでいた。いずれも夜中のこと。
「山崎藩の武士が御殿からご馳走の残りを重詰にして帰宅する途中、知らぬ間に馬糞(ばふん)入りの重詰に、すり替えられていた」とか。
「暗い道なのでローソクに火をつけた提灯の明かりをたよりに通行中、なにものかに火を消され、溝に落ちて大ケガをした」とか。
「大木のような巨大な、お化けがあらわれ腰をぬかした」など、など。町の人たちは、いずれも「いたずらキツネ」の仕業だと話し合っていた。
 そのころ、同町西鹿沢と段両地区の境界の直ぐ北側に山崎藩の治安を守るための「鶴木門」という大きく立派な門があった。
「惣門(そうもん)」ともいわれ、冬は暮れ六つ(午後6時)になると大扉を閉じ、よほどの急病人でもない限り通行が許されなかった。門の横には番所があって番士が交代で張り番をしていた。
 ある日。弥左衛門という番士が宿直をしていたところ、夜おそく門をたたく音がし「弥左衛門、弥左衛門さん、門を開けて下さい、急病人が出たのでお願いします」との声。弥左衛門さんは寝たばかりのときだったので、目をこすり、こすり番所を出て小門を開けてみた。しかし、誰もいない。「はてな…空耳だったのかな…」と思いながら番所にもどって仮眠の床にはいった。
 しばらく、うと・うと、していると、また「門を開けて下さい。急病人です」との声。弥左衛門さんは、やっと体がぬくもりかけたところだったので、いやいやながら外に出て小門を開けてみたが、やっぱり誰もいない。
「おかしいなあ…」と一人ごとを言いながら、また床の中にもぐり込んだ。すると、今度は一段と大きな声で「早く門を開けて…」と繰り返し叫び始めた。
 うるさくて仕様がないので再度、小門を開けてみたが、やっぱり誰もいない。「くそ…」「これは、よっぽど、いたずら好きの小僧の仕業に違いない。こっぴどく、こらしめてやろう」と番所にもどらず、門の小脇の軒下にかくれて待っていたところ、しばらくすると大きなキツネが太い尻尾を振りながら門の前にあらわれた。
 「おやー!!」と弥左衛門さんは驚いたが、息をひそめて様子を見ていると、キツネが門の扉の前で逆立ちになり、うしろ足を扉にかけ太い尻尾で ″トン・トン″と戸をたたきながら人声に似せて「弥左衛門さん、門を開けて下さい」と言いはじめた。腹を立てた弥左衛門さん「おのれキツネめ。人をだましやがって…」と六尺棒をにぎって表へ跳び出し「こなくそ…」とキツネの頭を一撃。不意をくらったキツネは六尺棒で脳天を打たれてはたまらない。神通力を失って失神した。弥左衛門さんは、キツネの足を縛りあげ翌日、門の前につり下げて見せものにした。そのあと「これからは絶対人をだますなよ…」と怒鳴りながら放してやったが、それ以降キツネのいたずらは、すっかりなくなったという。
    (2005年3月掲載:山崎文化協会事務局)

(63)波賀町水谷『イボかみさま』

石碑の『イボかみさま』

 お正月に発行される『サンホールやまさきニュース』の“郷土の伝説と民話”のシリーズには「新春にふさわしい明るく楽しい伝説を掲載したい」と思い、宍粟市内あちこちのお年寄りの方々に、「なにか、明るい伝説をお聞きになったことはありませんか?」と尋ねていたところ、ある古老の方が、「はっきりしたことは知りませんが、波賀町水谷にイボの治療を叶えてくださる『イボかみさま』が、おまつりしてあるそうです。なんだか、明るい言い伝えがありそうだと思うんですが…」との話をしてくださった。
 さっそく、いつもお世話になっている波賀町文化協会の大成みちよ会長に電話。「同町内の水谷に今も『イボかみさま』がおまつりしてあるんでしょうか?」と問い合わせた。しばらくすると大成会長から「水谷在住の地域のことに詳しい方に聞いたんですが『イボかみさま』は今もおまつりしてあります」との返事をいただいた。
 いまにも雨が降りそうな年の瀬に近い曇天の朝、同市山崎町の中心部を車で出発。国道29号線を北進して波賀町へ。大成会長宅を訪問して取材の同行を依頼。引き続き車で同町水谷地区へ向かった。同町上野地区の国道29号線の交差点から同町と同市一宮町北部を結ぶ国道429号線に人り、およそ3キロ東進して水谷地区へ着いた。同地区では、地元のことに大変詳しい山村堅太郎さんに、お出会いし『イボかみさま』がおまつりしてあるところへ案内していただいた。
 『イボかみさま』は、同地区にあるヤマメ・アマゴ水谷養魚場の直ぐ側の道路近くの山すそにおまつりしてあった。お祠(やしろ)ではなく、高さおよそ2メートル、幅1メートル余の大きな石碑だった。石碑の台石には、直径およそ40センチの窪みのある石が備え付けられ、透き通った水が溜まっていた。
 山村さんは「昔からの『イボかみさま』は、ここからちょっと離れた山すそにありました。大きさは、今の石碑の3倍くらい。岩のなかに窪みがあり、いつもきれいな雨水が溜まっており、この水をイボにつけると、すっかりイボが取れたそうです。そこで地元の人たちが話し合い、イボを取ってくださるのは神様の御陰だろうと、この大岩を『イボかみさま』と名づけておまつりしたとのことです。しかし20年ほど前、道路の改修工事が施工されたとき、やむを得ず移動せねばならぬことになり、現在地へ移っていただいておまつりしました」と話されていた。
 『イボかみさま』の伝説については、大成会長、山村さんと話し合いをしたうえ、想像をたくましくして次のようなことだったのではないかと考えてつづってみた。

 昔、むかしのこと。水谷地区に畑仕事、家事など、よく働く年頃の娘さんが住んでいた。気がやさしく真面目で美人とあって地域の人気ものの一人でした。娘さんは日ごろは極めて平穏な生活をしていたが、ただ一つ辛いことがあった。それは、足の指先にイボができ、急いで歩くとすごく痛むことだった。
 ある日の夜、娘さんの夢路に清楚な身なりをした神様が現れ、「娘さんよ、足の指先にイボができ、歩くと痛むので困っているそうだね。いまから私の言うことをよく聞いてイボの取れる治療をしなさい。奥水谷の道ばたに大きな岩がたっており、その岩の中央に窪みがあって、いつもきれいな雨水が溜まっている。その水を指先にできているイボにつけてみなさい。きっとイボがとれますよ。しかし、イボに水をつけたあとは決して振り返らず帰宅しなさい」との託宣があった。
 娘さんは、夜の明けるのを待って、神様がおっしゃった通りの大岩のあるところへ行き、岩の窪みに溜まっていた、きれいな水を足の指先のイボにつけ、振り返ることなく急いで帰宅した。そのあと同じことを数日繰り返し続けていたところ、すっかりイボが取れてなくなった。娘さんは大よろこび。このことを家族はもちろんのこと、近所の人たちにも話した。
 すると、この話を聞いたイボができて困っている近在の多くの人たちが大岩をたずね、窪みに溜まっている水をイボにつけての治療に励んだためか、「振り返るな…」の約束を守っておれば、だれのイボもすっかり取れていたとのこと。前記したように、こんな有り難い大岩だったので、水谷地区の人たちが相談を重ね、『イボかみさま』としておまつりしたという。

 旧波賀町教育委員会から平成3年3月に発行された『ふるさとの文化財』の本の中には『イボかみさま』のことを『イボ石』という題で「昔から水谷部落の人々は、誰かれともなしに“イボが出来るとイボ石のつぼの水をつけるとなおる”と言って、へこんだ石に溜まっていた水をいただきによくお参りしていたそうだ。石をおがんだ後、石が見えないようになるまでは、絶対に後を振り向かずに家まで帰らないといけない。もし後を振り向くとご利益は消えてしまうそうである」(原文のまま)と記載されている。
  (平成20年1月:年宍粟市山崎文化協会事務局)