(17)上牧谷 『火車婆(かしゃばば)』

伝説にある山すその墓地

 山崎町上牧谷で『火車婆(かしゃばば)』という、ちょっと恐ろしい話が語り継がれていた。
 さわやかな秋晴れの日、同地区在住の元同町農協組合長、小西優さんに案内をお願いし、伝説の墓地と経納(きょうのう)山頂を訪ねた。
 墓地は民家からほど近い山すそにあり、掃除の行き届いたお墓が並んでいた。墓地の直ぐ横から急坂の山道を登って白滝稲荷(いなり)大明神がおまつりりしてある稲荷神社へ。このお社が建っているところが昔は「経納(きょうのう)山」と言い、いまは 「稲荷(いなり)山」と呼ばれる山頂だった。
 小西さんから伝説にまつわる話を聴き、同町上ノ・矢野寅之助さんと小西さんが協力して著作した「蔦沢の伝説と民話集」を参考に「火車婆」の伝説をつづってみた。

 昔のこと。同地区の奥深い山の中に「火車婆」が住んでいた。そのころ村では、だれかが亡くなると葬儀をすませたあと、直ぐに遺体を険しい山すその墓地に運び、穴を掘って土葬するのが習わしだった。しかし、村人たちが遺体の土葬をすませると、いつも山の中から一陣の疾風とともに「火車婆」が現われ、またたくうちに土を掘り起こして遺体を食べていた。困った村人たちは射撃の上手な猟師に頼んで「火車婆」を撃ってもらうことにした。
 村一番の腕ききの猟師が「火車婆」の射殺を引き受け、遺体を土葬する日、墓地近くの茂みに隠れて鉄砲を構え、「火車婆」の出てくるのを待った。土葬をすませた村人たちの姿が見えなくなったころ、にわかに空がかき曇って雷鳴が轟(とどろ)き「火車婆」が現れた。猟師は、すかさず「火車婆」を狙い、持っていた弾を全部撃ちまくった。「火車婆」は右に左に素早く動いて、墓石で弾を受け止め、一発も命中しなかった。
 ほとほと困り果てた村人たちは当時、村にいた偉いお坊さんに「火車婆」退治の相談を持ちかけた。お坊さんは、しばらく考え『村の猟師から銃弾一発を借り、私のところへ持ってきなさい』と言った。さっそく村人が猟師から弾を借り、お坊さんに届けた。お坊さんは弾を仏前に供え、懸命にお経を唱えて「火車婆」を追っ払うお祈りを続けた。数日後、腕ききの猟師を寺に呼び、仏前に供えていた一発の弾を手渡して『この弾を腹巻きの中にしまい、自分の持っている弾を撃ちつくしてから、最後に腹巻きに入れた弾を取り出し「火車婆」のノド笛を目掛けて撃ちなさい』と告げた。
 猟師は次の遺体を土葬する日、墓地近くの木立の中で鉄砲を構えて「火車婆」を待った。その日も雷鳴が轟き、暗雲がたち込める中「火車婆」が姿を見せた。猟師は、持っている弾を全部撃ったが、前と同じように「火車婆」には命中しなかった。「火車婆」は猟師の撃つ弾がなくなったと思ってか、いつにもなく、ゆっくりと土を掘り返し、遺体を食い始めた。その時、猟師は、お坊さんから渡された弾を腹巻きの中から取り出して鉄砲にこめ「火車婆」のノド笛を狙って〝ズドン″と撃った。弾は「火車婆」のノド笛を撃ちぬき〝ギャア″と悲鳴をあげて即死した。
 このことを知った村人たちは『もう「火車婆」は出てこん』と胸をなでおろした。
 お坊さんは「火車婆」のたたりがないよう経文をつくり、村人たちが、この経文を墓地の上の山頂に塚をこしらえて埋めた。それからこの山を経文を納めた山というので「経納(きょうのう)山」と呼ぶようになったという。

 小西さんは『昔は墓地のあったのが険しい危険なところだったので、子供たちが墓地付近に行かぬよう、こんな伝説が語られたのではないか』と話しておられた。
         (1999年11月掲載)