①山崎町 段『段の観音堂の絵馬』

段の観音堂の絵馬

 山崎郷土研究会の掘口春夫会長は毎月一回、かかさず山崎町段の観音堂へ、おまいりする。
 この観音堂は江戸時代の後期、山崎藩の城主、本多家の祈願所だった。当時、堀口会長の祖父が本多家の家臣で、藩主のお供をして祈願所へ、おまいりしていた。このことが掘口会長の〝観音堂詣で″のきっかけとなった。幼いころ祖母に連れられ何回も観音堂へ出かけた思い出が鮮明に残っているという。
 段の観音堂の正面右側に大きな絵馬が上がっているが、この絵馬と山崎藩に、まつわる伝説があり、堀口会長から次のような話を聞いた。

 昔、ある秋のこと。山崎藩城下の村々、とくに段、鶴木地域に夜な夜な田畑を荒し回る怪獣が出没。その被害は大変なものだった。そこで村人たちが庄屋の家に集まって相談。怪獣の正体を突きとめるため夜の張り番をすることにした。
 とっぷり夜が更けたころ、激しい蹄(ひずめ)の音。現われたのは怪獣ではなく1頭の裸(はだか)馬だった。裸馬は、あたりかまわず田畑をかけ回り、取り入れ真近い稲や大豆を食い荒し始めた。村人たちは鍬や竹の棒を持って追い回したが、足の速い裸馬には歯がたたず、追えば逃げ、近寄れば蹴散らされ、とても手に負えない。東の空が白みかけるころ裸馬は悠々と姿を消した。
 ある日、一人の若者が裸馬の住処(すみか)をつきとめるため尾行したところ、裸馬は段の観音堂の絵馬の中に入り込んでしまった。この話に村人たちはびっくり。観音様のお怒りかもしれぬと、たくさんの食物を供え裸馬が出ないよう祈願したが、利(きき)目がなかった。
 思案にくれたあげく、庄屋から山崎藩の馬術師範だった桑田四郎右衛門氏常に「荒馬を捕まえて下さい。」と願い出た。氏常は、さっそく承知。夜の更けるのを待った。まもなく村人から裸馬が現われたとの知らせ。氏常が現場にかけつけて見ると、裸馬が荒れ狂っていた。
 氏常は、裸馬を遠巻きにしている村人たちの中を割り、恐れることなく裸馬の前に大手を広げて立ちふさがった。裸馬は竿立ちになって、いなないた。その時、氏常の手が馬のたてがみに触れたとたん、ひらりと馬上に飛び乗った。その早業に村人たちは驚嘆「さすが馬の先生や」とほめたたえた。氏常が馬上の人となると、馬は急におと
なしくなり、見事な鞭(むち)さばきで氏常の意のまま動き出した。
 氏常は、さっそく裸馬を観音堂の絵馬の中に追い込み、絵のかたわらに松の木を描き、それに手綱(たづな)を結びつけた。さらに絵馬に、にらみをきかせるため、馬が一番恐れるという龍(りゅう)の絵を絵馬堂の天井板いっぱいに描いた。それから裸馬は一切出なくなった。

 現在、伝説の絵馬は風雨にさらされて、ほとんど絵が消え原形はわからないが絵馬堂の龍の絵は残っており、「正徳五年末、桑田氏常画」のサインが見える。平成六年九月、堀口会長が一力月がかりで描いた「桑田氏常絵馬を捕らえるの段」の油絵が絵馬堂に上げられている。
                (1995年9月掲載)