令和4年10月9日に、文化庁の伝統文化支援事業に選ばれ、宇原獅子舞を全国に紹介するための動画撮影が宇原岩田神社にて行われました。現在、文化庁のホームページにて宇原獅子舞が紹介されています。また、東京文化財研究所や兵庫県指定文化財審査員による視察もあり、今後の更なる発展が期待される次第です。今月の宍粟チャンネルでも宇原獅子舞の活動が放映されています。
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第27回「しそうの森合唱祭」が開催されました。
コロナ禍の影響で延期されていた第27回「しそうの森合唱祭」が 令和4年6月26日(日)、 山崎文化会館で開催されました。
今回は基本的に無観客(出演者相互鑑賞のみ)での開催となりました。開催の様子を動画で紹介します。
西播磨ふるさと写真展作品募集の件
「西播磨文化フェスティバル」第42回西播磨ふるさと写真展作品募集の案内が来ています。
・作品受付期間:R04/7/1~7/31
・応募資格:どなたでも
・募集テーマ:中・西播磨の自然と文化
(未発表作品に限る)
(詳細は上記募集要項参照)
「宍粟市こどもフリマ」で宇原獅子舞奉納
令和4年3月20日(日)に開催される『宍粟市こどもフリーマーケット』にて、宇原獅子舞を奉納します。宍粟市で約150年間継承されてきた宇原獅子舞の「本物の獅子が生きた様に舞う」技法と迫力を是非、ご覧ください。皆様のお越しを心からお待ちしています。
続きを読む1月~3月の文化イベントを登録しました。
山崎文化会館で開催されるR04/1月~3月の文化イベントを登録しました。
イベント情報から検索してください。
【関連事業】を追加しました
「関連事業」として「山崎八幡神社薪能の歴史」と「しそうの逸話」ページを追加しました。
メニューの【関連事業】からアクセスしてください。
→【関連事業】
【ご参考】2021年度宍粟学講座のご案内
会 場:宍粟防災センター5階ホール
時 間:14時~15時30分
定 員:先着50名
受講料:無料
テーマ:(6月5日) 「西播磨の中世武家と家紋~宇野氏を中心に~」***【緊急事態宣言延長により中止となりました】
(8月21日)「古文書からみた宍粟のたたら製鉄」
(10月2日)「風水害から古文書を救う」
(11月20日)「長水城と戦国時代の宍粟」
(R4/2月5日)「西播磨の伝統芸能」
問合わせ先:宍粟市教育委員会 社会教育文化財課
TEL:0790-63-3117
→(詳細)
「西播磨文化」第43号が発行されました。
宍粟市文化協会前会長、福岡久蔵氏の「ともしびの賞」受賞の紹介記事。
宍粟市文化協会の活動紹介:今回の担当は波賀文化協会です。
また、前号より始まった「郷土の文化人」コーナー(揖保川水系)は宍粟市文化協会(山崎文化協会)から「福原謙七」を掲載。執筆は「やまさき文化」No.38で同氏を紹介いただいた鎌田裕明様にお願いしました。
「第41回春の芸能祭」の開催中止
掲題、毎年御出演の皆様からのご意見、そして現段階の新型コロナ感染拡大状況を鑑み、令和3年5月16日の開催は中止させていただくこととなりました。何卒、ご理解賜りますようお願いいたします。
②山崎町 上寺 『妙勝寺の夜泣き石』
山崎町上寺、法光山、妙勝寺の表山門をくぐり、本堂に向かって左側の庭を見ると「夜泣霊碑」と刻み込まれた石碑がたっている。高さ、およそ1.8m、幅30cmほどの細長いもの。横から眺めると、わずかな反りがあり、もと、石の橋として使われていたものだと推測できる。この石が江戸時代末期、山崎城下の人びとをさわがせた「夜泣き石」だといわれる。
同寺、住職の大岩祥峰さんは、この「夜泣き石」について『史実にもとづくものではありません。あくまで伝説です。この伝説にも、いろいろの説があるんですが…』と前置きして次のような話をしてくださった。
江戸時代も終わりに近いころ。赤穂藩士の娘が、ある山崎藩士の元へ行儀見習いに来ていた。絶世の美人で、たちまち町の評判になり「赤穂小町」といわれるようになった。この美しい娘に思いをよせる若者たちは多く、なかに、しつこく言いよる山崎藩の若者もいた。しかし、娘は、すでに赤穂に恋人がいたので、だれにも、よい返事はしなかった。
ある、おぼろ月の夜。この娘が山崎城下を流れる小川に架かっている石橋の上で殺された。評判の「赤穂小町殺人事件」とあって、城下は大さわぎ。『だれが』『なぜ殺したんだろう』など、うわさにうわさをよんだ。なかに、しつこく言いよっていた山崎藩士の若者の仕業だろうという人もあったが、はっきりとしたことは、わからずじまい。
娘の死顔は、あまりにも可憐で美しかったので、世間の人びとは、その死を、ことのほかあわれんだ。殺人事件のあった日から娘の怨念が石橋に、のりうつったものか、夜になると石が「赤穂へいのう。赤穂へいのう。」と悲しい声で泣きだした。町の人たちは、気味悪がって、だれも、この石橋を通らなくなってしまった。やがて、だれ言うとなく、この石橋を「夜泣石」というようになった。
城主は「縁起のよくない石橋」というので家来に命じて新しい石橋に架け替えさせた。そうして、元の石橋は地元へ下げ渡した。町の人たちは殿さまから下げ渡された石橋だったが 「不浄の石橋を使って、たたりでもあっては大変だ」と、その取り扱いに困りはてた。恩案のあげく石橋を近くのお寺に持ち込み、墓場の竹やぶの中に置いた。しかし「赤穂へいのう。赤穂へいのう」との夜泣きは止むことなく続いた。
当時、妙勝寺は、いまの鹿沢、天理教会東側にあったが、建物のいたみがひどく、この寺をつぶして上寺の方へ新しく建てなおすことになった。「寺が建つのなら石橋を石材として使ってもらったら娘のたたりもなくなるだろう」と、いうことになり、新しい寺の敷地に「夜泣き石」を運んだ。そこで、時の山主、要妙院日解上人が、この「夜泣き石」を寺内の庭に安置し「夜泣霊稗」として、ねんごろに供養して菩提をとむらった。それ以来、法華経の功徳をうけ「赤穂へいのう。赤穂へいのう」の夜泣きが止んだという。
大岩さんは、いまも毎年、春秋の彼岸とお盆には、かかさず「夜泣霊碑」の前に、お花をたて、ねんごろに供養している。
(1995年12月掲載)