(28)『大イノシシ為篠王(いざさおう)』

伝説の上野・笹山一帯

 波賀町に「上野・笹山の大イノシシ為篠王(いざさおう)」の伝説があるのを聞いた。さっそく、同町文化協会の大成みちよ会長に電話。伝説の地への案内をお願いした。
 曇天(どんてん)の朝、同町へ。大成会長と出会い、その足で上野にある町役場を訪ねた。木づくりの素晴らしい庁舎にびっくりしながら同町教育委員会の一室へ。そこで同町文化財審議委員会の牛谷修三会長、教育委員会の岡田博行生涯学習課長に、お目にかかり、大成会長をまじえた三人から「為篠王」の伝説についての話を聴いた。
 このあと伝説の地、上野・笹山へ案内してもらった。笹山は町役場から1.5kmほど離れた上野から水谷へ通じる道路沿いにあった。ポツリ、ポツリ雨の降る中「為篠王」が住んでいたという笹山を見た。推定標高約250m。スギ、ヒノキの植栽された美林だった。昔は、この山、全体にササが繁茂していたということだが、いまは林内や山すそ付近のあち、こちにササが生え、そのころの名残をちょっぴり止めているだけだった。
 「為篠王」の伝説をヒントに地元で作られた“笹うどん”が、同町原の国道29号線沿いにある「道の駅はが」で食べられるというので、胸ときめかせて道の駅へ。食堂にはいり “笹うどん” の由来や薬理効用を書いた掲示板を見ながら “笹うどん” を食べた。
 麺は淡い竹色でコシがあり、うわのせにネマガリタケの竹の子“スズコ”や“ワラビ”など山菜がはいっていた。同行のみなさんは「うまい、うまい」と声をそろえた。
 牛谷会長ら三人から聴いた話と同町教育委員会発行の「掘り起こそう、わがふるさとを」No.2を参考に、想像もまじえて、この伝説をつづってみた。

 昔のこと。播磨の国の奥地、上野・笹山(現在、波賀町上野)に大イノシシが率いる十数頭の群が住んでいた。ボスは普通のイノシシの二倍以上、胴長3m余り、黒褐色の体毛も長くササをまとっているように見えた。ボスは山に自生するササを思う存分に食べ、その薬効などによって特別に大きく成長したらしい。村の人たちは、この大イノシシを「為篠王」と呼んでいた。
 イノシシの群は、いつもは山内のササや木の実など食べて生活していたが、ある時、数年にわたってササや木の実の凶作が続き、山での食べ物が欠乏した。飢えに苦しむ群の中の数頭が、ボスの忠告を聞かずに里に下り、田畑の農作物を食い荒らすことがあった。村人たちは、大きな被害に悲鳴をあげ、寄りより被害防止策を語り合っていた。
 この話を聞いた里の住人、腕ききの猟師“狩人の忠太”が「よし、わしがイノシシを退治してやろう…」と、使い馴れた弓矢を持って笹山の奥地まではいり、茂みに隠れて群の出てくるのを待った。数時間後、大イノシシが率いる群が姿を見せた。忠太は、あわてることなく弓に矢をつがえ、大イノシシを目掛けて矢を放った。矢は胴体に当たったが、大イノシシは負傷しながらも一目散に南東の方へ走った。そのころ明石海峡は遠浅で明石と淡路島は、ほとんど陸続きだったらしく、大イノシシは、ついに淡路島北淡町、鹿の瀬へたどり着き、淡路富士といわれる先山の頂上まで逃げ登った。
 狩人の忠太は大イノシシを追って先山の頂上に辿り着いたが、その時、嶺の大杉の洞穴の中から千手千眼観世音菩薩さまが光明と共に現出された。菩薩さまの胸には忠太が放った矢が痛々しくささっていた。これを見た忠太は「自分が菩薩さまを矢で射てしまったのだ」と大いに憾悔。発心(ほっしん)して出家。名を寂忍と改め、長い間、修行を重ねた上、この地に七堂伽藍を建立し、ご本尊の観世音菩薩を安置。先山千光寺が開山されたという。
              (2001年9月掲載)

先山千光寺 のイノシシの狛犬