波賀町安賀の波賀八幡神社と同町原の原八幡神社では、毎年、氏子たちによる古い伝統を持つ『チャンチャコ踊り』が奉納されている。この『チャンチャコ踊り』について両神社の小林盛三宮司と同町教育委員会で話を聴き『波賀町誌』を参考に、その伝説などをつづってみた。
むかし、この地方が七日七夜にわたって暴風雪に見舞われた。家は壊れ、田畑は荒れ放題。人命にもかかわる思いがけない災いだった。村の人たちは「こんな、ひどい災害は何かの祟(たた)りだろう。お助けを氏神様に乞い祈るほかはない」と相談一決。神様にお祈りして「この災害を鎮めて下されば、氏子がたとえ三人になっても踊りを奉納して、ご恩に報います」と、願(がん)をかけ『チャンチャコ踊り』を奉納したのが始まりと伝えられている。踊りの起源は十余種ある踊り歌の文句から推察して、いまから五百数十年前の室町時代だろうといわれているが一説には、さらに古い鎌倉時代とも伝えられている。
この踊りは、都のあった京都から諸国巡礼中のお坊さんか、高い山々を巡って荒行をする修験者が何日もかかって村人たちに教えたとも、伊勢神宮の信者が広めたともいわれているが一方では但馬、因幡から中国山地を越え、奥播磨にはいった行者が伝えたという説もあるという。但馬の養父郡大屋町大杉の『ザンザコ踊り』は類似の民俗芸能として伝承されている。
『チャンチャコ踊り』の踊り子は主として小学生。波賀八幡神社では安賀、上野、飯見、有賀、斉木の五地区ごとに、それぞれ十数人から二十数人の踊り子たちが選ばれる。踊り子たちは陣羽織を着て頭に赤色の鉢巻を結び、右手に五色の色紙で作った御弊、左手に唐団扇(うちわ)を持った〝シンポウチ″と、締め太鼓を細い竹で腰に付けた〝カンコウチ″にわかれ、同神社の神楽殿に勢ぞろい。双方が一列に並び、お互いに向い合って大人たちの鉦(かね)や太鼓の、お囃子(はやし)と歌声にあわせて踊る。踊り歌は各地区によって違うが、代表的なものは〝入踊り″〝宝踊り″〝お屋敷踊り″〝姫子踊り″など。
原八幡神社の〝シンポウチ″は三人で、陣羽織を着て、錫杖(しゃくじょう)を持ち、赤鉢巻をして後ろにたらし、ワラ草履(ぞうり)をはく。〝カンコウチ″は6、7人が絣(かすり)の着物にタスキを掛け、菅笠をかぶる。双方が神殿前の境内広場で、お互いに向い合い、大人たちの鉦・太鼓のお囃子と歌声にあわせて踊る。踊り歌は〝児踊り″〝境濱踊り″など八種。以前は踊りの当日、原地区の人たちが30㌢くらいの細い割木で作った万燈(まんとう)を神社に持ち寄り、これを焚いて奉納していた。
踊りの奉納は、むかしは陰暦の7月に2回行われていたが、明治30年から5月に1回、新暦を基準として生活をするようになってからは5月か8月か、9月かに1回、近年は8月のお盆すぎの土曜か日曜に奉納されることが多くなっている。
(1999年5月掲載)